USHINABE SQUARE

クラシック名盤・名曲と消費 生活 趣味

京都・宮川町『グリル富久屋』

京都祇園の近く花街として有名な宮川町に店を構える創業1907年の老舗洋食店『グリル富久屋』。私が学生の頃から様々なガイドブックに掲載されていたので知っていたが、行くのは初めて。イメージとして、歌舞伎役者や芸妓さんや舞妓さんが贔屓にしている店。だから敷居も高く、値段も高そうなイメージだったのか、何故か今まで行く機会がなかった。


もう12月の話になってしまうが、訪れることができた。祇園甲部歌舞練場の中にある『フォーエバー現代美術館 祇園・京都』に「草間彌生展」を観に行った昼に訪れた。ちなみに『フォーエバー現代美術館 祇園・京都』は2月をもって閉館が決定している。



美術館を出て、建仁寺沿いの道を曲がり、大和大路を南下。建仁寺の境内を通ってもよいが、建仁寺に拝観したい気持ちになったら困るので、店を直接目指すことにして、7分ほど歩く。12時ちょうどくらいに店に到着する。



外観はイメージと違って、庶民的な雰囲気だった。知らない人から見ると、創業110年の歴史がある店とは誰も思わないだろう。中に入ると、ランチタイム真っ只中というのに席に余裕があった。いかにも観光客のような人や京都を訪れる外国人風の客もいない。京都の人が気軽に訪れる店で、場所柄、祇園の住人や働く人も訪れるかもしれないが、私のように身構えて訪れる人は少数派なのだと知った。奥にテレビがあって、客の誰かの好みか、店の人と客の最大公約数的に選ばれた番組が放映されている。テレビはあっても見ないので、私は気にしない。テレビが普通に存在している洋食店、というのが昨今珍しいので、それはそれで味があると思った。雰囲気も接客も全体的に気さくな感じで、明治創業という重みは、良い意味でなかった。イメージとしては近所の食堂のようである。店に入りやすいし、過ごしやすい。


私は1,360円の洋食弁当(並)を注文した。私は4人掛けのテーブルに外が見える側に座り、道を走る自転車、行き交う人たちを眺めていた。他のテーブルはお年寄りが一人で食べていて、年配の夫婦が一組いた。夫の方が瓶ビールを開けていた。私もビールを注文したかったが、その後、車に乗るかもしれないので耐えた。



そのうち私の料理が運ばれてくる。楕円の器にご飯とおかずが入れられている。レストラン風に、メインの皿とライスの皿、というのも悪くはないが、お弁当形式というのが嬉しい。私は和食でも松花堂弁当みたいな弁当形式が好きなので、こういうのはテンションが上がる。世界が完結している、という感じがする。おかずはハンバーグ、ヒレカツ、エビフライ、魚のフリット。ハンバーグの下に野菜。ミニトマト。黄色いたくあんの漬物がいいアクセントになっている。



一つ一つの料理がコンパクトなのは、昔からの流れで、芸妓さんや舞妓さんが口を大きく開かずに食べられるようにという配慮だそうだ。また匂いが強い食材も避けている。ハンバーグも香辛料の香りは控えめで、家のお弁当に入っているハンバーグをグレードアップしたような味だった。


トンカツにソースはあらかじめかかっておらず、必要ならテーブルに置かれたソースを使用するシステムのようだ。トンカツは揚げたてでカラッとしてサクサクしており、この上品で小ぶりなトンカツにソースをかけるのが何とももったいない感じがした。何もつけなくても、仄かに塩味がして、これでもいける。私は、魚のフリットのタルタルソースを少しつけてみる。これはいける。また、ハンバーグのソースをつけて食べる。それもいける。エビフライは小ぶりだが身が詰まっていてしっかりとしたエビの味がする。魚のフリットは、単なる魚フライではないので、他のフライものとの味の変化を楽しめる。考えてみると、洋食弁当という名前でコンパクトな容器に収まっているが、一つ一つがメインを張れる主役級のメニューだ。


内容が豊富なので、次にどれにしようかと迷ってしまう。一つ一つの完成度が高い。それらをご飯とセットで食べる。オールスター級のおかずを無視して、たくあんでご飯を食べる贅沢。優れた芸術にさらされると、カロリーを持っていかれる。美術館に行くと何故か腹が減る。目の前の食事に集中し、失ったカロリーを取り戻していく。


すっかり食べ終えて空っぽになった器。時間はまだ1時前だった。京都で過ごす時間はまだたっぷりある。私は先斗町河原町方面に向かうため、鴨川を渡った。




【グリル富久屋】

住所/京都府京都市東山区宮川筋5-341
営業時間/12:00~21:00
定休日/木曜・第3水曜

ラミン・バーラミ&リッカルド・シャイーのバッハ

バッハの鍵盤楽器協奏曲集は、私がとても好きな曲ばかりなので、日頃よく聴いている。第1番BWV1052ニ短調は最も有名なもので、初めて聴いたときの衝撃は相当なものだった。同じ協奏曲としては、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調を初めて聴いたときの衝撃に並ぶくらいだった。何の偶然か、どちらもニ短調の曲だ。


バッハの鍵盤楽器協奏曲は、元々鍵盤楽器のための曲として作曲されたものではなく、ヴァイオリンなど他の協奏曲からの編曲や別の作品からの転用などによって書かれたと言われている。最も有名な編曲としては、第3番ニ長調BWV1054で、こちらはヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調BWV1042としてのほうが有名だ。


私が最も好きなのは第2番ホ長調BMV1053で、マレイ・ペライアがアカデミー室内管を弾き振りしたSONY盤は愛聴盤として神棚に(ないけど)上げて飾っておきたいくらいのもので、今でも週に5日は聴いている。


バッハの鍵盤楽器協奏曲の演奏は、時代的に、チェンバロ演奏によるものも多く、それらも好んで聴いているが、私はピアノの方が好きだ。前述のマレイ・ペライアの演奏もピアノだ。チェンバロの清楚な響きも捨てがたいが、バッハの時代にはなかった現代ピアノによる細かなニュアンスの表現力は、曲を書いた本人の構想を超えているのではないかと思えるほど多彩だ。


そんなに好きな曲なので、いろいろな録音を揃えているのだが、無茶苦茶たくさんの種類の録音が発売されているというわけではなく、意外に限られたものなので、新しい録音が発売されると大体買っている。


Bach 5 Klavierkonzerte

Bach 5 Klavierkonzerte


このCDは、ラミン・バーラミがリッカルド・シャイーが指揮するライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との共演で収録したものだ。超有名な第1番BMV1052からBMV1056までの5曲が収録されている。2009年録音、2011年発売という比較的新しいもので、私は発売してすぐに手に入れた。


協奏曲としてみると、このCDの雰囲気は、演奏技術を競うような殺伐としたものではなく、ピアノとオーケストラの調和によって、聴かせる玄人好みのものだ。オーケストラは基本的にはビブラートを抑えたピリオド奏法に近いが、学問的なそっけなさというか、お勉強的なつまらなさはない。軽やかでまろやかで華やかである。バランス感覚が絶妙だ。


ラミン・バーラミは、まだ40代にさしかかったばかりの中堅ピアニストでありながら、当代きってのバッハ弾きである。バーラミのピアノの特徴は、タッチは力強く、ズンズンと重厚なのに、全く鈍重にならない。それでいて、いかにもドイツ風、巨匠風というわけではなく、イタリア的な歌心を感じさせる。存在感をもった音が、玉が高いところから低いところへ自然に転がるように流れていく。同じバッハ弾きとして、ペライアの演奏も傑出していたが、バーラミの演奏もそれに並ぶ。バーラミはイラン出身で、イランイラク戦争の戦時下で幼少期を過ごした。音楽の才能があったため、人の縁に恵まれヨーロッパに留学することができた。その頃からバッハの音楽が彼の支えであったという。バーラミのバッハが感動的なのは、そうした過去が演奏に宿るからかもしれない。


バッハ:ピアノ協奏曲第1、2、4番

バッハ:ピアノ協奏曲第1、2、4番



バーラミは、ペライアとはキャリアも世代も異なるが、また別のバッハ像を描くのに成功している。そしてこの2つが私の今の愛聴盤となっている。

プラハ国立劇場オペラ『フィガロの結婚』フェスティバルホール

明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


◇  ◇  ◇


正月に、久しぶりにオペラに行ってきた。


仕事と子供の世話で平日や普通の土日は全然予定が立てられないことが多いのだが、1月3日は正月休みの最中でもあるし、妻に子供を頼んで行ける目途が立った。しかし、小さな子供持ちが、仕事ではないことに休日出掛けて行くというのは、そういう実務的なことよりも、家族や小さな子供を置いて自分だけがオペラに行く、罪悪感をどうするのかということが重要である。割り切りと、気持ちの切り替えが超えるべき壁だったりする。しかし子供も成長すれば、そのうち親の方が不要な存在となってくるはずだ。いつまでも子供次第な生活で良いのか。趣味の世界は埃にまみれてしまう。子供も少しは大きくなってきたことだし、案外気持ちがストップをかけているだけで、行く条件さえそろえば、簡単に行けるのかもしれない。1月3日ならなんとかなる。1月3日にフェスティバルホールで『フィガロの結婚』のオペラをやっている。しかもチェコのオペラハウスの来日公演だ。「これは行かねば」と思った。いままではあまり行けなかったが、そういう楽しみを持った一年にしたい。そんなふうにして、チケットを取ったのが1週間前だった。空席はかなり少なくなっていたが、幸い、2階席最後列が空いていた。



今回、来日した「プラハ国立劇場」は、「スタヴォフスケー劇場」による公演である。プラハには3つの大きなオペラハウス(スタヴォフスケー劇場・国民劇場・国立歌劇場:通称・新ドイツ劇場)があり、そのうちの二つ、スタヴォフスケー劇場と、国民劇場は同一の劇場が運営している。チェコの3つのオペラハウスはどれも親しみ深いオペラハウスだが、中でもスタヴォフスケー劇場は私にとって思い出深い劇場だった。モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』を初演したその劇場で、私は約10年前、『偽の女庭師』というモーツァルトのオペラを観た。その旅行で私は、残り2つのオペラハウスでもオペラを観て、ハンガリーの国立歌劇場にも行った。一人目の子供が生まれる前の話で、それから10年以上経った。いまはローカルに働いていて、余暇でも海外にすら行けなくなって、そのままパスポートも切れている。その時のスタヴォフスケー劇場。今回観られるのが、あの劇場の『フィガロの結婚』だというのが、決定的だった。



モーツァルトオペラのすべて (平凡社新書)

モーツァルトオペラのすべて (平凡社新書)

ひとりでも行けるオペラ極楽ツアー

ひとりでも行けるオペラ極楽ツアー


私は開場30分後の14:30にフェスティバルホールに着き、webで予約していたチケットを受け取る。ひたすら長い、天井の低いエスカレーターに乗り、ホールのフロアに上がる。オペラなので、全体的に綺麗な服装の人が多い。カジュアルな服装の人もいるが、中には着物の人もいる。『007』のジェームズ・ボンドみたいなタキシードの人もいる。スーツの人も一定の割合でいる。さすがに短パンの人は皆無だ。私はボタンシャツに下はチノパン。上はコートを着るので、ジャケットは着ない。1階席前列でもないので、このくらいで手を打った。周りから浮かない、平均的な服装だ。席に着いて、購入したプログラムや他の催しのチラシを見ているうちに、開演時間となる。全4幕のオペラで、多くの『フィガロ』の上演と同じように、第2幕の後に休憩があるようだった。照明が暗くなり、案内アナウンスが始まる。照明が最低限必要なものだけを残してすべて落とされ、指揮者が登場する。観客は固唾を飲んで見守る。


指揮棒が振り下ろされ、序曲が始まる。古い家の古い家具のような、古風で優雅な、いかにもモーツァルトらしい音。インターナショナルなサウンドでなく、ローカルなサウンドである。プラハのスタヴォフスケー劇場で聴いたものと同じ音がそこにあった。その音は、ホールを鳴らすというよりも、ダイレクトに伝わってくる。もっと小さな空間で聴いているみたいな、王宮のサロンで聴いているみたいな(行ったことないけど)、演奏者から聴き手までの距離が近いと感じるような音だった。そしてフェスティバルホールの音にも触れておかなければならない。私はフェスティバルホールがリニューアルしてから初めてだったが、旧フェスティバルホールと比べて音響はさらに良くなっているように感じた。大きさを感じさせないというか、モーツァルトの規模のオーケストラなのに、この大きなホールで、モーツァルトの音楽に対して音量が足りない感じがない。以前のフェスティバルホールも素晴らしいホールだったが、ジャンルによっては、席によっては音が遠さを感じるところもあったし、繊細な要素が聴き分けにくい時があった。


指揮者のエンリコ・ドヴィコ氏は、私には知識がないが、各地のオペラハウスでの経験も豊富で、現在、ウィーンのフォルクスオーパーの首席客演指揮者を務めている実力者だ。いわゆるスター指揮者ではないが、オペラでオペラハウス叩き上げの経験に勝るものはない。彼のタクトから、確かにモーツァルトの音が生まれている。


舞台の幕が上がり、フィガロが登場する。フィガロは褒めすぎなら申し訳ないが、クリス・プラットみたいな雰囲気だった。逞しく、優しく、ユーモアがある、とても健全なフィガロだった。スザンナは、スタヴォフスケー劇場のソリストを務めるソプラノ歌手で、日本人でも小柄なくらいの方だろうか。でも声量は十分で、可憐でありながら芯の強さが伝わってくるような雰囲気だった。スザンナらしいスザンナだった。伯爵は、役柄の割に、大らかさや優しさが出ており、権威的でなく、一杯食わさせてしまうのだが、テーマで描かれているモーツァルトのメッセージが生きてくるのは、彼の伯爵だからこそというのがあった。伯爵夫人は、有名なエヴァ・メイで、私が知っているのは、彼女くらいのものだった。『フィガロ』では伯爵夫人は、スザンナ以上に見せ場の多い伯爵夫人なので、さすがというか、圧倒的だった。名前で客が呼べるオペラ歌手という感じだった。他の出演者も国際的なスターではないにしても、チェコの歌劇場で活躍する有力な歌手ばかりで、大変レベルが高かった。ケルビーノもマルチェリーナもバジリオもバルトロもアントニオもバルバリーナも、みんな良かった。日頃こんな高水準のオペラに接しているプラハの人が心底羨ましいと思った。またいつか、そういうところに旅行に行って、オペラを楽しむことができるようになるのだろうか。


オペラ名歌手201 (OPERA HANDBOOK)

オペラ名歌手201 (OPERA HANDBOOK)

(↑こちらの『オペラ名歌手201』に載っているくらい有名な「エヴァ・メイ」。)


舞台が進むにつれて、場が温まってきて、歌手もオーケストラも(客席も)慣れてくるのがオペラの面白いところだ。固さが取れ、次第に自由になっていく。濃くなって、「地」が出てくる。歌手は個性的に、オーケストラは流麗になる。観客もリラックスしてきて、柔らかくなってくる。そんななかで、エヴァ・メイの圧倒的な独唱が出てくるから、陶酔してしまう。


演出や舞台設定は、最先端の舞台装置を誇るものではなく、素朴なものだったが、新演出も良かった。フェスティバルホールの舞台の見やすさは素晴らしくて、それほど高価な席ではなかったのに、随分近く見えるものだと思った。休憩時間に1階から3階まで、見え方がどうなのか見に行ったが、3階は高さがあるものの、見えにくいということはなかった。1階は最後方でも舞台から近い。よく見える。良い意味で、1階から3階まで差がそれほどない。一体どういう設計で出来ているのだろう。素晴らしい設計思想。フェスティバルホールの良さがアップデートされている。もちろん、同じく大阪のシンフォニーホールのような「残響2秒」みたいなクラシック専用ホールとは違うが、この大きさなホールで、この音で、この見え方で、オペラを楽しめるのが凄い。第一、シンフォニーホールではオペラを上演できない(演奏会形式を除く)。


久しぶりにオペラの実演を観てみて、中でも『フィガロ』は何と楽しいオペラなのだろうと思った。話が楽しいばかりでなく、まるで、心が躍るような音楽の洪水だ。私が最も好きなのは、数ある名場面の中でも、第2幕のフィナーレだ。登場人物が徐々に増えてきて最終的に七重唱にもなり、ストーリー上はドタバタで吉本新喜劇の最後みたいな無政府状態で、一体どうなるのかという感じでハラハラさせるのだが、音楽的にもスリリングで、手に汗を握る。高いテンションのまま最後までスピード感を緩めずに奔るという感じで、興奮してしまう。曲の終わりとともに幕が下りてくるのだが、拍手は鳴りやまない。


そして休憩後、第3幕、第4幕と続く。全編にわたって、これほど名場面、名曲ばかりという作品も少ないだろう。とにかく全部が見どころ、聴きどころ。終始、笑顔で舞台に接することになった。



そんなわけで、休憩を含めると3時間半近く。あっという間だった。最後のカーテンコールを終わっても拍手が続き、照明が再び灯されて、オーケストラが退席するために起立すると、ようやく拍手が止んだ。オペラほど非日常を味わえる催しは少ないと言われるが、本当に非日常の世界だった。忙しい現代人が視覚と聴覚を舞台に集中させられ、意識は創作の世界に入り込み、3時間半も同じ場所に座っている。そういう娯楽は少ないのかもしれない。夢のような3時間半を過ごした私は、陶酔した気分を持続させる気で、そのまま地下1階の英国風パブに入った。

プラハ国立劇場オペラ来日公演】
2018年1月3日
プログラム/プラハ国立劇場オペラ『フィガロの結婚
会場/フェスティバルホール
開演/15:00
指揮/エンリコ・ドヴィコ
フィガロ/ミロシュ・ホラーク
スザンナ/ヤナ・シベラ
伯爵/ロマン・ヤナール
伯爵夫人/エヴァ・メイ
ケルビーノ/アルジュベータ・ヴィマーチコヴァー
マルチェリーナ/ヤナ・ホラーコヴァー・レヴィツィヴァー
バルトロ/ヤン・シュチャヴァー
バジリオ/ヤロスラフ・ブジェジナ
ドン・クルツィオ/ヴィート・シャントラ
アントニオ/ラジスラフ・ムレイヌク
バルバリーナ/エヴァ・キーヴァロヴァー
プラハ国立劇場合唱団/管弦楽団/バレエ団


www.concertdoors.com

【2019プラハ国立歌劇場来日公演スケジュール】
1月3日(木)15:00開演 フェスティバルホール
1月5日(土)/6日(日)15:00 開演 東京文化会館
1月7日(月)18:30 武蔵野市民文化会館
1月9日(水)18:30 練馬文化センター
1月10日(木)18:30 川口総合文化センター
1月12日(土)17:00 日本特殊陶業市民会館
1月13日(日)15:00 滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール
1月14日(月・祝日)15:00 アスティとくしま
1月15日(火) 18:30 福岡シンフォニーホール
1月17日(木) 18:30 アクトシティ浜松
1月18日(金) 18:30 茅ヶ崎市民文化会館
1月19日(土) 15:00 盛岡市民文化ホール
1月20日(日) 15:00 よこすか芸術劇場

フィリップ・ヘレヴェッヘのベートーヴェン・『第九』

ベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」、通称『第九』を聴いている。


1ヶ月近く、交響曲全集からの録音も含め、様々な録音を聴いてきた。この時期だから聴きたいということもあるが、聴けば、「これはベートーヴェンの最高傑作なのではないか」と思う。クラシック音楽全体で言っても大傑作であり、音楽全体にジャンルを広げてみても、また芸術全般ということで言っても、きっとこれは比類のないものだ。一音楽家が成し得た奇跡的到達という感じがする。最近、あまりコンサートに行っていないが、コンサートで第九を聴くと、どんなオーケストラ、どんな指揮者でも、必ず私は感動してしまう。その音楽、その演奏を通して、崇高な精神性に触れている。そういう類の曲は、あまりないのではないか。


今日触れるのは、指揮者フィリップ・ヘレヴェッヘによる2種類の『第九』だ。どちらの録音も、楽譜に忠実なだけでなく、演奏方式も当時のものを再現したと言われるオリジナル楽器によるピリオド奏法を特徴としている。


■1999年シャンゼリゼ管弦楽団


Beethoven: Symphony no. 9 / Herreweghe, Orchestre Des Champs Elysees, et al

Beethoven: Symphony no. 9 / Herreweghe, Orchestre Des Champs Elysees, et al


演奏は、シャンゼリゼ管弦楽団。1999年のリリースとあるが、録音の時期と場所は不明。ライナーノーツにも書かれていなかったが、このオーケストラ自体が新しいオーケストラなので、1990年代のうち1999年に近い時期だろう。通常の演奏では第九は70分程度の時間となるが、このCDは約62分という短い演奏時間なので、いかに快速テンポなのかがわかる。ちなみに各楽章ごとの演奏時間は、第一楽章から13:32、13:25、12:28、23:02である。往年の大指揮者の演奏と比べると、まるで違うスポーツをしているようである。しかしこれもありだと思わせるのは、ベートーヴェンの音楽に特有の、聴き手を高揚させるメロディや、追い立てるようなリズムだ。「間違いなく、いま自分はベートーヴェンの第九を聴いている」という実感は、演奏の仕方によってどうこうなるものではなかった。そして第四楽章の合唱部分は、かなり優れている。バッハやフォーレの声楽曲を得意とするヘレヴェッヘならではという感じがする。


■2009年ロイヤル・フランダース・フィル盤


Symphony No 9 (Hybr)

Symphony No 9 (Hybr)


演奏は、ロイヤル・フランダース・フィル(現在はアントワープ交響楽団と名称変更されている)。2009年10月ベルギー、アントワープにて録音されている。演奏時間は、速かった1999年盤よりも、さらに速い約61分という時間。各楽章の演奏時間は、14:05、13:18、11:54、21:38なので、全体が短い割に、第一楽章と第四楽章に時間をかけていることがわかる。それでいて、全体が短く収まるうえで、第二楽章と第三楽章がたいへん早いというわけになっている。前者と比べると、演奏の匂い(スタイル・音色)はたいへん似通っている。違うとすれば、10年の歳月なのかもしれない。全体的にはスムーズだが、指揮者の思いが入る余地が増えているのか、細部の陰影が濃くなっている。私が好みなのはこちらの盤だ。


どちらの演奏も、『第九』にドラマを求めるような人には不向きな録音かもしれないが、清々しい音色と言い、清楚な響きと言い、スピード感と言い、ヘレヴェッヘならではの音楽作りとなっている。こういう演奏は案外、普段、クラシック音楽を聴かない人にはすんなり受け入れられるのかもしれない。スムーズで音質も素晴らしい。


ヘレヴェッヘの第九は、同じようにピリオド奏法を得意とするロジャー・ノリントンベートーヴェンと比べると、もう少し客観的というか、冷静で、そこが好みの分かれるところかもしれない。しかし、全てが同じような演奏ばかりではつまらないし、そうした違いを味わうため、指揮者やオーケストラを変えて曲を楽しむというのは、クラシック音楽の楽しみの一つだと思う。


Beethoven: The 9 Symphonies

Beethoven: The 9 Symphonies


1巻当たりの価格が割安な全集も今では発売されているが、私が買い始めた頃は全部の録音が揃っていなかったので、単品で揃えることになってしまった。

『WALKMAN(ウォークマン)』Aシリーズ『NW-A56HN』を買った

WALKMANウォークマン)』(以下、ウォークマン)、Aシリーズ『NW-A56HN』を買った。



iTunesで取捨選択してもプレイリストから中々落とせない曲が多く、いま持っている64GBのipod touchの容量では苦しくなってきた。しかしすぐには購入に至らずしばらく検討中で、128GBのiPod touchを基本に考えていたのだが、新しいタイプのものを使用したいという、好奇心が勝った。私はiPodではなく、ウォークマンを注文した。ウォークマンはカセットテープの時代から使用し、CDウォークマンやメモリータイプのウォークマンまで使用した経験があるが、最近は全然親しみがなく、私は断然iPodシリーズばかりで、古いminiから、classic、nano、touchに至るまで、アップル一択だった。

既に慣れ親しんだものから、あまり親しみのなかった類のものに替えるというのは、酔った勢いみたいな軽さや、決心や、新しいものへの好奇心が必要である。今私の手元には新しいウォークマンがある。私はオーディオマニアではないので専門的なレビューは出来ないが、しばらく使用してみた感想を書いてみたい。



◆◆音質◆◆

まず気に入った曲を入れて、聴いてみて、驚いた。「なんとスカスカな音」。圧縮音源のクオリティーを向上させる機能、「DSEE HX」と、低域をアナログアンプのように豊かにする「DCフェーズリニアライザー」をオンにすると多少まともになったが、音のボリュームがか細く、人工的で、とても長く聴き浸ることができるような音ではない。私は間違った選択をしてしまったのか。あるいはオーディオ製品に宿命のエージングが不足しているのだろうか。そこでイアホンを耳から外して、しばらく鳴らしてみることにした。新しく手に入れたウォークマンをすぐに楽しむことはできないが、ひょっとして音が変わるかもしれない。私は全曲リピートをかけてプレイリストを上から順番に二日ほどひたすら鳴らしてみた。

そして聴いてみた結果、音が劇的に変わっている。あのスカスカの音は何だったのだろうか。まずはベートーヴェンのオーケストラ作品で聴く。まるでホールで聴いているみたいに、残響も豊かで低い音から高い音まで実に幅広く鳴らす。今度はビル・エヴァンスの曲に変えてみる。ピアノの切れ味鋭いアタック、ジャズのベースの音もズンズン響く。臨場感たっぷりだ。全体的には、iPod touchに比べると解像度が高く、元気なサウンド作りとなっているように感じた。しかし古いiPod touchの音が悪いわけではない。

イメージ的に、音質では「iPod=悪」、「ウォークマン=良」みたいなイメージがないだろうか。しかしそれはイメージであり、本当の姿ではない。私は何年も使用したiPod touchの音質の素晴らしさを再評価することになった。低音から中音、高音まで満遍なく、変な癖もなく鳴らすことができるのがiPod touchの強みだ。ソースにもよるが、キャラクターとしては音の解像度はそれほど追い求めておらず、スタンダードなサウンド作りとなっていることが、ソニーとの比較で分かった。また、低音の量感は、意外にもiPod touchの方がある。チェロやコントラバスが活躍するようなクラシック音楽の作品では、iPod touchの方に分がある。


◆◆iTunesとの連携◆◆

ウォークマンをパソコンにつないで中を開くとmusicというフォルダが見えるので、そこにiTunesに入っている曲をドラッグアンドドロップするだけ。特別の操作をしなくても、ジャケット写真も自動的に同期される。私は基本的にはSDカードメインで使用しているが、曲を本体とSDカードに適当に入れていっても、それぞれ区別されることもなく同じリスト上に表示される。パソコンとつないだ後にiTunesにバックアップすることもないので、iPodよりも速い。クラシック音楽の作品で多いのだが、同名の曲などは、フォルダにコピーするときに、どちらを残すかみたいな表示が出るので、どちらも残すにチェックをする(その場合、曲名の後に自動的に番号が付く)のが面倒と言えば面倒な点だ。


◆◆SDカードで容量を増やせる◆◆

元々容量に困ってウォークマンを買ったこともあり、64GBや128GBのSDカードを使用できるのは嬉しい。長時間のオペラも容量を気にせず入れている。


◆◆付属イヤホンについて◆◆

単体で1万円くらいするノイズキャンセリングイヤホン『IER-NW500N』が付属する。価格的にはかなりお得だ。音質は当初感じた「スカスカ」からかなり改善してはいるが、特徴的なものではなく、癖もなく、きわめてスタンダードなものだ。ノイズキャンセリングという「飛び道具」分にコストがかかっているとはいえ、音質面で3,000~5,000円のイヤホンのレベルは超えている。また、さらなるエージングで改善してくるかもしれない。

気になったのはケーブルが細い点だ。すぐに断線するわけではないと思うが、本体に巻いて傷んでもいけないので(何といっても単品で1万円である)、別売りのイヤホンケースを購入した。

ノイズキャンセリングについては、カナル型ということもあって、家で聴いていると、人の話し声も全然聴こえなくなるが、地下鉄ではそこまで劇的には消してくれない。『MDR-NC33』の頃からは向上しているが、BOSEの『QuietComfort20』ほどではない。また同じソニーでも、もっと高価な『WH-1000X』のようなノイズキャンセリングヘッドホンと比べても、感動を覚えるレベルではない。不足はないが、ハイエンドのものとは確かに違う。しかし地下鉄の騒音(轟音)の中、シューベルトピアノソナタを聴くことができるなんて、昔では考えられないことだ。


◆◆一緒に買ったもの◆◆

純正ソフトケースとイヤホンケース(純正がないので、オーディオテクニカのもの)を購入。


◆◆悪い点・改善点◆◆

アラームがない。これは様々なことができるiPod touchと違って、音楽プレイヤーだからなのかもしれないが、目覚まし時計機能やアラーム機能がないし、単純な時計(時刻表示)機能がない。本体設定で時刻を設定するのだが、それはただ設定するだけで、録音や音楽のデータベースに使用されるだけで、単純な時刻表示機能すらない。例えば、音楽を聴きながら寝て、何時に起きるみたいなことができない。それどころか、何分後にアラームなどの機能がない。例えば、音楽を聴きながら、電車で寝てしまったときに、15分後には起きたいなどのニーズには対応できない。これは困る人は本当に困るかもしれない。



私が聴くのは主にクラシック音楽で、ジャズも結構な頻度で聴き、ポピュラー音楽もたまに聴く。今の割合では、6:3:1というくらいの割合だが、『NW-A56HN』は、特に苦手なジャンルもなく、最近のソニーのオーディオ製品らしくオールマイティーな音楽プレイヤーだと感じた。そんなわけで、どこに行くにも持って出掛けている。

SONY・ハイエンドデジカメ・RX100M3

8月にソニーのハイエンドデジタルカメラ『RX100M3』を買って、しばらく使っている。



初代が2012年に発売されて、欲しいと思いながら2年くらい悩んでいるうちに、3代目のM3が発売され、シリーズはM4、M5、M5Aへと進化し、2018年12月現在では、7代目のM6が発売されている。どれも並売されてるのが偉い。それぞれの機種にファンがいる。シリーズ全体が人気だ。



肝心なのはどれを買うかということで、私はM3でなく、無印のRX100でも良かったのだが、M3の、あのポップアップ式のビューファインダーを使ってみたかった。M3が発売された当初は、高価なため見送ったのだが、価格はいまはだいぶ落ち着いている。梅田のヨドバシカメラに寄った時に、ありえない値段で売っていたので(その当時の価格コムの最安値よりもかなり安かった)、その日に買うつもりはなかったのだが、思わず手に取り、レジに向かっていた。


家に帰り箱を開けて設定をすまして、後日使ってみた感想は、「悔しいほどよく写る」ということだった。例えばオートでやや逆光で人物を撮ったとき。見事に補正されていて、まるでネガフィルムを現像に出した時みたいに、問題のない写真が出来上がる。


人物、風景、スナップ、料理の写真など、オールマイティーだ。映像素子の1インチというフォーマットも、適度に背景をぼかすことも出来るし、シャープに撮影することもできる。フルサイズやマイクロフォーサーズよりもフォーマットが小さいため被写界深度も深くなり、高画素機の割にそれほどピントにシビアでない。手ぶれ補正機能も効いている。手軽に綺麗な写真が撮れる。いや、手軽どころか、私は1200~1600万画素くらいの写りに慣れているので、この写りは凄まじい。等倍で鑑賞するのはあまり意味がないが、等倍での鑑賞にも耐えうる画像だ。


残念なのは起動で電源を落とすときのスピードがやや遅いこと。起動からレンズが伸びるときや、電源を落としてレンズがボディに収まる時の音も良くない。ジージー言って、カメラというよりは家電的で、私はあまり好きではない。もちろんそれは写りには関係ないことだが、気になる点だ。



操作するうえでは各種キー、ダイヤルの感触は悪くない。金属製で、大きさの割に意外に重さがあり、テクノロジーが凝縮された感じがあって、カメラとしての質感も高い。


(↓以下、RX100M3で撮影した写真です。)






このカメラを購入してから、どこに行くにもカバンの中に入れている。出掛ける時、いままではニコンのデジタル一眼や、富士フィルムの『X-T1』、『X100T』などもう少し大きなカメラで撮っていたのに、今はこの小さな『M3』で事足りる。複数のレンズ、複数のカメラを持たなくても、近所の散歩から、外食の時の料理の写真や、遠出や旅行まで、これ一台で済んでしまう。自分にとって、それは進歩なのか退化なのか。横着ではないのか。他のカメラを手放すべきなのか。喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか。小さく軽く、写りも素晴らしい。あまりに便利なため、余計なことをいろいろ考えてしまった。

神戸新開地・『グリル一平』のビフカツ

その日、私は休日で、朝から「ビフカツ(ビーフカツ)」を食べたかった。それも、近所で食べられるビフカツではなく、本場の「ビフカツ」を食べたかった。ビフカツとは簡単に言えばトンカツの牛肉版だが、肉が違うだけで、味も食感も値段もトンカツとは全然違う。私はトンカツも好きだが、ビフカツは、ロールプレイングのゲーム風に言うと、レベルが倍は違う。あるいはビフカツは「進化」、「覚醒」バージョンである。そんなビフカツの本場は神戸。本場で食べられるビフカツは他とは違う。できることなら本場で食べたい。


私は梅田から阪急電車に乗った。目的の店は特に決めず、漠然としたまま、三宮方面に向かった。


三宮に着く前に目的の店決まるかもしれない。もし決まらなければ、とりあえず降りてみて、そのときの気分で即決しよう。特に目的地を定めずに、車窓を眺めるというのは、日頃、カレンダーや手帳の日程・時間で行動していることから考えると、とても豊かな時間のように感じられた。


電車に乗った当初、私の頭をよぎったのは、三宮から近い元町にある『洋食ゲンジ』だった。『ゲンジ』なら間違いない。想像しただけで生唾が出てきたので、飲み込んだ。また、トアロードの『もん』も良いかもしれない。ビフカツを食べて、お土産にビフカツサンドを買って帰る。それはとても良いアイディアのように思われた。しかし私は財布に5,000円ほどしか入っていないことを思い出した。


一方で、行ったことのない店への渇望がわいてきた。神戸方面には、行ったことのない店がまだまだたくさんある。しかし、今日はクリームコロッケやエビフライやハンバーグではないのだ。ビフカツは、きちんと、定評があって、知っている店で食べたい。私のなかでのビフカツを食べたい欲求は頭のなかで巨大化していた。


その後、頭をよぎるのは『グリル一平三宮店』。あそこなら間違いない。しかし三宮店。三宮店というからには本店があるはずだ。どこだろう。『グリル一平』の本店は、新開地にあるはずだ。幸い私が乗った阪急電車の最終目的地は新開地だった。新開地。その響きはとても懐かしい。昔やっていたファミコンの『ポートピア連続殺人事件』というゲームがあって、私はゲームの中で、幾度となくその地名を行ったり来たりしていたのだ。ファミコンの性能を限界まで使用した一枚のドット絵が私の想像を掻き立てた。その地名の響きは、私のなかで郷愁にも似た淡い思い出を思い出させる。

 


私が乗った阪急電車は三宮を過ぎ、花隈を過ぎ、高速神戸を過ぎ、新開地に着いた。私は電車を降りて、地上に上がる。『ポートピア連続殺人事件』のドット絵の画面とは似ても似つかない、リアルな街並みが広がっていた。新開地の街並みは、大阪の新世界のようでもあり、千日前のようでもあり、それに港町らしい開放的な雰囲気が加わったような、独特な雰囲気を持っていた。メインストリートの左右には、風情というよりは、味のある街並みが広がる。


着いたのが早すぎたので、私は近所を散策する。落語の寄席で話題になった喜楽館。新開地にあったのだった。いかにも落語の好きそうな方々が吸い込まれていく。今日も公演が予定されていた。チケットもありそうだが、洋食を食べに来たのであった。



新開地商店街のアーケードを北へ歩き、南へ引き返し、時間となり私は店を訪れる。開店間もない時間なのにすでに先客がカウンターに一人とテーブルに一組いた。私がカウンターの席に座ると、店の人がメニューと水を持ってくる。こちらのお店では、ビフカツは、メニュー名では、「ヘレ・ビーフカツ」と書かれている。100グラムと130グラムを選ぶことができて、前者は1,600円、後者は2,100円だった。私は迷わず2,100円の130グラムを選択した。昼に2,100円とは高価だが、ビフカツの値段である。大体このくらいはかかる。


私が待っている間、続々と客が入って来る。とはいっても、行列ができるほどはない。スーツ姿や普段着。一人客も多く、多くても二人客まで。グループ客はあまり見当たらない。この辺りに働きに来ている人が昼食をとりに来ているようだった。みんながビフカツを注文しているわけではなく、多くの人はリーズナブルなランチを食べていた。



私はカバンを開いて、デジカメを設定したり、スマホをチェックしたりしていた。それほど待たされないうちに、料理が運ばれてくる。


付け合わせの野菜。ポテトサラダ風のマッシュポテト。ショートパスタがお洒落である。


嬉しい外食。ビフカツを食べる。ソースはコクがあって、やや苦みがあって、老舗洋食店らしく、歴史の豊かさを感じさせるものだった。ナイフとフォークを使用して肉を切るが、箸でも切れそうな柔らかさだ。衣の中の牛肉はミディアムレアで、旨みたっぷり。噛みしめる度にさらにおいしくなっていくグミを噛んでいるような食感。



アップで。『食べログ』だったら、肉の断面を撮影したりするのだろう。食べている途中で撮影すると、食べることに集中できなくなってしまうので、いつも撮影できないでいる。前述したように、肉の断面は、ミディアムレアの赤色である。その旨みたっぷりのビフカツに、秘伝のソースがたっぷりかかっているのが嬉しい。ナイフとフォークで切り分けて、口に入れる。ビフカツが口の中に残っているうちに、ライスを食べる。至福の時間。130グラムにして正解だった。


ビフカツを食べていつも思うのは、豚肉が牛肉に変わっただけで、トンカツとはどうしてこんなにも違うものなのかということだ。例えば肉を焼いたときにも豚肉と牛肉は違うが、衣に包んで揚げると、さらにその違いが増幅される。レベル倍増である。何に似ているということもなく、ビフカツはビフカツとしか表現のできない食べ物だ。この一食のために、三宮や神戸を越えて、新開地まで来たのだった。


私は料理をすべて食べ終え、会計を済ませて店を出る。往復1,000円以上も使って、わざわざ新開地まで来た甲斐があった。

【グリル一平 新開地本店】

住所:兵庫県神戸市兵庫区新開地2-5-5 リオ神戸 2F
営業時間:11:30~15:30(L.O.)/17:00~20:30(L.O.)
定休日:木曜(※祝日時は水曜振替)、第3水曜

ショパンの舟歌のプレイリストを作って聴く

ショパン舟歌が好きで、クラシック音楽を聴きはじめてから今日に至るまでずっと聴いている。

あまりに好きなので、私はiTunesで、お気に入りの様々なピアニストによって演奏される、「舟歌だけのプレイリスト」を作っている。軽い気持ちで聴き流すと、いつの間にか聴き浸ってしまい、この音楽の持つ流れるようなリズムと、叙情的な旋律に、身を委ねることになる。


◇  ◇  ◇


ショパン:4つのバラード、幻想曲、舟歌

ショパン:4つのバラード、幻想曲、舟歌

最初は、クリスティアン・ツィマーマン。一言で言うと完璧主義者の舟歌だ。私がショパンに夢中になったのは彼のショパンを聴いたからであることを思い出した。クリスタルのように澄んだ音色。完璧なテクニック。絶妙なテンポ。詩的で、エレガントで、ノーブル。これを聴いて、嫌いになる人はいないだろう。万人にとって最良となり得る演奏。

ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ 第2番/ショパン:ピアノ・ソナタ 第2番、他

ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ 第2番/ショパン:ピアノ・ソナタ 第2番、他

エレーヌ・グリモーは男性ピアニストと比べても勝るとも劣らない力強いタッチが中性的で、フランス人なのにドイツ風の骨太な演奏がとても良い。

プレイリストは、ルービンシュタインの演奏する到達する。ルービンシュタインの演奏は、度量が大きな人のように、安心感がある。豊かな音色には、豊かな人生が反映している。実に堂々としていて、揺るぎない信頼感がある。

ボジャノフ ワルシャワ・ライヴ (Live in Warsaw / Evgeni Bozhanov plays Chopin, Schubert, Debussy, Scriabin, Liszt) [輸入盤]

ボジャノフ ワルシャワ・ライヴ (Live in Warsaw / Evgeni Bozhanov plays Chopin, Schubert, Debussy, Scriabin, Liszt) [輸入盤]

エフゲニ・ボジャノフの演奏は、個性的だ。覚醒的で、緻密で、非常に解像度の高い写真のような演奏となっている。それでいて独特のスケール感を持っており、まるで交響曲を聴いたような満足度のある演奏である。ボジャノフは、ピアノの達人で、テクニックは憎らしいほど完璧。解釈は確信的。この演奏からはショパンが「ピアノの詩人」であるとは思えない。一般的にイメージするショパンの演奏とは確かに違っているのだが、聴き終わったときにこちらのイメージを塗り替えるような力強さを持っている。とても聴きごたえのある演奏となっている。

デビュー・リサイタル

デビュー・リサイタル

マルタ・アルゲリッチ。この演奏はデビューリサイタルからのものだ。聴いていて強く感じるのは、これは舟歌のリズムではなく、アルゲリッチのリズムだということだ。独特のタッチ。独特のテンポ。少し聴いただけでわかるアルゲリッチ特有の音。彼女だけの音楽。いてもたってもいられなくなるような、掻き立てられるような、焦らされるような、強烈な求心力を持った音楽。悪魔に魅入られたように、彼女から発せられる音楽に支配される。鮮烈で、魅惑的な舟歌

ワルシャワ・リサイタル~バレンボイム・プレイズ・ショパン

ワルシャワ・リサイタル~バレンボイム・プレイズ・ショパン

ダニエル・バレンボイム。新しい録音なので音質が素晴らしい。まるで空気の震えまで収まっているかのような臨場感。現代を代表する指揮者としても有名なバレンボイムはピアニストとしても現代を代表する存在だ。この演奏はピアノを、ショパンを、観客を知り尽くしている、という感じで、私などは軽く捻られる。かといって蓄積や昔の財産で食っているような嫌みはなく、最高のパフォーマンスを出すための真摯な姿勢が見える。レストランで高価なワインを注文すると大抵満足する。定評のあるものは大抵素晴らしいものだ。高価なバレンボイムのリサイタルに行った気分が味わえる。


◇  ◇  ◇


そうやって沢山のピアニストの舟歌を聴いていると、舟歌のノスタルジックな旋律に乗って、ピアニストの生きざまのようなものが伝わってくる。私はピアノの演奏はできないし、聴くばかりだが、音楽を通して伝わってくる彼らの人生の豊かさみたいなものひしひしと伝わってくる。

巨匠・バレンボイムの次は、若いピアニストが待っている。

Chopin: Mazurkas Op.56, Nocturne in B Major, Scherzo in E Major, Piano Concerto in E Minor Op. 11

Chopin: Mazurkas Op.56, Nocturne in B Major, Scherzo in E Major, Piano Concerto in E Minor Op. 11

ダニール・トリフォノフ。瑞々しくて、若い。コンクールの演奏なので、観客の緊張感みたいな雰囲気がある中で、若いピアニストが果敢に、怖いもの知らずで攻めている。作品への没入は周りが見えなくなるほどで、途中で彼の演奏を止めることはできない。ピアノに没入し、存在を消していくのにしたがって、現れ出る音楽の影は次第に巨大化していく。瑞々しいエネルギー、繊細きわまりないタッチ、高い音楽性が高度に結晶した素晴らしい演奏を聴くことができる。

トリフォノフは別の演奏もプレイリストに入れている。このアルバムのメインは、ゲルギエフが指揮するチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番だが、舟歌カップリングされている。コンクールではないので、ややリラックスした気持ちで弾いているのだろう。演奏はやや丸くなっており、技術的にも完璧だが、私はコンクールの方の、粗削りではあるが、個性が前面に出た演奏が好みだ。

ショパン:スケルツォ全曲、子守歌、舟歌

ショパン:スケルツォ全曲、子守歌、舟歌

マウリツィオ・ポリーニは基本的にアスリートだと思う。ツィマーマンが「柔」であればポリーニは「剛」。すべての音符を平等に音楽にしていく迫力。前に向かう推進力。テクニックに優れたピアニストはポリーニ以降も現れたが、彼の、鉄のような意思を感じるような、苛烈なピアニストは見たことがない。

ラファウ・ブレハッチI

ラファウ・ブレハッチI

ラファウ・ブレハッチ。最後には、最もショパンらしい演奏をプレイリストに入れている。ブレハッチは、ツィマーマンと同じようにポーランド人であり、美しい音色や繊細なタッチが共通するが、全然違う香りがするのはなぜだろう。ブレハッチのピアノには骨董品のような素朴な輝きがある。ブレハッチは、ツィマーマンほど完璧主義的ではない。例えばツィマーマンがリサイタルに自分のピアノを持ち込んでホールの音響を考慮して徹底的に調整するのはよく知られているが、ブレハッチはそこまでしないだろう。あるいはどこのコンサートホールに備え付けのピアノでも、自分らしい音を聴かせるのではないか。ロマンチストであり、高度なテクニックを持つ、同じポーランド人なのに、両者の演奏は全く異なる。しかしどちらもショパン舟歌のとても優れた演奏となっている。

このようにプレイリストで音楽を流していくとあっという間に時間が過ぎていく。