国立西洋美術館『コロー・光と追憶の変奏曲』
先週、東京出張があったので、ついでに、土曜日まで東京に滞在して、国立西洋美術館に行ってきた。8月末まで、「カミーユ・コロー展」が開催されている。
『コロー・光と追憶の変奏曲』
会場:国立西洋美術館
開催期間:2008年6月14日(土)〜8月31日(日)
開館時間:午前9時30分〜午後5時30分(毎週金曜は午後8時まで開館)
※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜休館
※ただし7月21日、8月11日は開館、7月22日(火)は休館
カミーユ・コローというと、私にとってはそれほどなじみはなく、ルーブル美術館をはじめとして、ヨーロッパの美術館でよく見かけた画家だなという程度の認識だった。
コローの関係者には申し訳ないが、「ムソルグスキー作曲の『展覧会の絵』のプロムナード」のように、名画と名画の間に、一瞬、立ち止まって見るだけだったように思う。
フランソワ・ミレーのような作風だとも思ったが、一見して良さがわかるわけでもなく、シンパシーを感じる画家ではなかった。改めて関係者に申し訳ないが、見てもそれほどのありがたみを感じない画家というのが本音だった。
(カミーユ・コロー「モルトフォンテーヌの思い出」/画像はWikipediaより)
展覧会の公式サイトを見ると、「いまなぜコローなのか」という項目があって、読んでみたらこれが興味深かった(→公式サイトはこちら)。この展覧会はまさに私のような層を対象としていたのだった。
簡単に言ってどういうことかというと、19世紀人であったコローの芸術には、「ロマン主義から発し、新古典主義的イタリア憧憬、ロマン主義、歴史主義的アカデミスム、レアリスム、自然主義、そして新しい印象主義的感性や写真術的技法、ジャポニスムなど、この長い激動の時代を生きたひとりの芸術家ならではのカオスのような感受性と表現が詰まって」*1いるということ。
つまり19世紀美術を象徴するような芸術家だった。
そしてコローは、自らの理念や方法を声高に語ることはなかったが、後世の画家にとてつもなく影響を与えたこと。
そんなコローの業績を正確に伝えることで、「世界的な評価と日本における認知度の低さ」*2をどうか変えたい、というのが展覧会の趣旨というか目的らしい。
そして展覧会の構成は、下記の通り。
「第1章・初期の作品とイタリア」
「第2章・フランス各地の田園風景とアトリエでの制作」
「第3章・フレーミングと空間、パノラマ風景と遠近法的風景」
「第4章・樹木のカーテン、舞台の幕」
「第5章・ミューズたちとニンフたち、そして音楽」
「第6章・思い出(スヴニール)と変奏」
コローの絵が中心なのは言うまでもないが、共通のモチーフやら今で言うリスペクトやら、しっかりその他の画家の作品も可能な範囲で押さえている。
ぼんやりとした線や何とも形容しがたい複雑な色。絵から受けた印象は鮮烈ではなかったが、じわじわと効いてくるようだった。
何よりも、肝心のコローの展示量は圧倒的で、ルーヴルから、アメリカから、カナダから、その他からも、よくもまあ、これだけ集めたなあというところだ。
意欲的。人出ももかなりのものだった。神戸でも開催される。語り継がれる展覧会になるだろう。
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