ラトル&ベルリン・フィルのブル9(4楽章補筆完成版)
サイモン・ラトルとベルリン・フィルによるブルックナーの交響曲第9番を手に入れて最近聴いている。この録音の珍しいところは、補筆による第4楽章を加えた、全4楽章構成の交響曲として演奏していることだ。
■国内盤
- アーティスト: ラトル(サイモン),ブルックナー,ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
- 出版社/メーカー: EMIミュージックジャパン
- 発売日: 2012/05/09
- メディア: CD
- この商品を含むブログ (2件) を見る
■輸入盤
- アーティスト: A. Bruckner
- 出版社/メーカー: Warner Classics
- 発売日: 2012/05/14
- メディア: CD
- 購入: 1人 クリック: 3回
- この商品を含むブログ (3件) を見る
ブルックナーの交響曲第9番は、彼の残した交響曲の中で第8番と並ぶ傑作であると同時に、未完のまま残された作品である。第3楽章までが完全な形で残されており、今日私たちがコンサートや録音で聴くことができるのは通常、3楽章までのバージョンである。
音楽評論家の福島章恭氏は、書かれるはずだった最終楽章について次のように語った。「ブルックナー最後の交響曲は未完に終わった。最終楽章は、厳粛にして壮麗なる対位法の大伽藍となるはずだったという。どんなに光溢れる神々しい音楽であったのか、いまは目を閉じて想像するほかない。」(文春新書『新盤クラシックCDの名盤』より引用)
第4楽章はオーケストレーションがされている部分も含めて、ブルックナー本人のスケッチが残されているものの未完で、後世になって様々な補筆が試みられている。
第3楽章までは強烈と言うか、えげつないほどの美技が堪能できる。ベルリン・フィルの演奏能力は驚異的で、そのスタイルについて賛否はあるもののラトルを芸術監督に据えた年月が間違いでなかったことを証明している*1。カラヤンの頃の重厚な演奏とは別物ではあるが、違った意味で凄みのある演奏で、開いた口が塞がらないほどのレベルにある。例えるなら、ミリ単位でのアプローチで、これほどの精度で曲に迫るオーケストラは現在他には見当たらない。
そして肝心の第4楽章は、ブルックナーらしいかと問われれば実にブルックナーらしい音楽となっている。メロディは異なるが、第3番の原典版などにも共通する、過度に洗練されない地の響きがある。ゴツゴツとした手触りと一転して絹のように滑らかな手触り。グロテスクなほどの美。ブルックナーらしさに溢れている。しかし傑作の第9番として、ふさわしいかと問われれば、私はやや物足りさを感じる。例えば第5番や第8番の最終楽章のように、宇宙と一体になったかのようなカタルシスには遠く及ばない。ブルックナーらしくはあるが、ブルックナーではない。ブルックナーがこの傑作を完成させずに死んでしまったことを嘆くしかない。変なたとえ話になるが、私は栗田貫一のルパン三世に違和感を感じる方なので、第4楽章はどうしても本物のブルックナーとの差が感じられてしまう。最初から続けて聴いたとき、前の音楽のフレーズの意味が最後になって分かるような、バラバラだった音の羅列が深い意味を持って迫ってくるような、「ブルックナー体験」は得られなかった。
とはいえ、本来ブルックナーが願った全4楽章構成の交響曲を完成させるということは、試みとして大変素晴らしいことであり、現代最高のオーケストラであるベルリン・フィルがこうした試みを行うのは画期的なことだと思う。実際、第4楽章を単独で聴いたとき、また違った楽しさがあることも発見した。独立した音楽として聴いた場合、すんなりと気持ちの中に入ってきた。
*1:2018年夏で退任することが先日、発表された