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室生寺と大野寺〜新緑のカメラ旅


カメラを持って室生寺と大野寺を散策してきた。桜の季節や紅葉も良いが、新緑の季節が私はけっこう好きで、カメラを持ってよく出掛けている。プチ『カメラ旅』だ。木々の、真新しい緑から生命力をもらうみたいに、余計に元気になって帰って来る。この季節は短く、油断していると、すぐに梅雨の声が聞こえてくる。また、梅雨入り前に猛烈な暑さが先にやって来る。貴重な、新緑の時期は、残業続きの日々の間にある、束の間の休日みたいだ。その貴重な休日に、私は、子供を助手席に乗せて、室生寺まで行ってきた。


どうして室生寺なのか。まず私は、仏像を拝観したかった。室生寺は素晴らしい仏像の宝庫である。遠くてなかなか行けない分、その仏像体験は特別なものとなるはずだ。次に、私はお寺をひたすら歩きたかった。参道を歩くだけでヘトヘトになるようなお寺として、室生寺が第一に思い浮かんだ。室生寺は山岳寺院で、諸堂が山中に点在している。山肌を縫うような格好で、参道の石段がそれらを結んでいる。700段とも言われる石段を登り終えた最後に奥の院がある。水筒を持って行って、途中休みながら水を飲み、奥の院のベンチで腰掛けて、残りの最後の水を飲みほしたい。実に下らない。しかし、ただ近所を歩くのではなく、わざわざ室生寺まで車で出掛けて行って、素晴らしい仏像と出会い、クタクタになるまで歩いて、奥の院まで行くことは、何かの意味があるはずだ。



駐車場に車を停めて(民間の駐車場で500円かかる)、県道の門前町みたいなところを抜ける。県道は川に沿っている。室生寺は方向としては、川の向こうにある。印象で言うと、こちら側は人の住む領域、あちら側は仏の領域という感じだ。焼きたての草餅を売っている店がある。覚えておいて、帰りに買うかもしれない。うどんやそばを食べられる店が2軒ほどある。途中、ラーメンを食べられる店もあった。10分ほど歩くと四ツ辻がある。三輪そうめんや山菜料理を食べられる店がある。写真家の土門挙が泊まった橋本屋もここにある。何年か前、室生寺に行った時の昼食に、この辺りでそうめんを食べた。予想外に美味しかったことを思い出した。そこを左折すると室生寺に渡る橋がある。この橋は太鼓橋という名前の橋で、この橋を渡ると、室生寺の領域となる。



仁王門。拝観受付や御朱印受付、売店がある。売店では、数珠などの仏具や、室生寺Tシャツなどのグッズ、室生寺錦という名前の織物が売られている。



鎧坂。長い石段の始まり。コンクリートで作られた階段と違い、天然の石を積み上げられた、ゴツゴツとした石段。鎧坂は、長さは大したことがなく、すぐに金堂に到達する。



金堂は鎧坂を登り切ったところにある。写真は金堂を左の側面から写したもの。建物の左側から回廊を渡りながら仏像に拝観する。素晴らしい仏像が一堂に会している。左から、十一面観音、文殊菩薩、釈迦如来薬師如来地蔵菩薩、そしてその前面に十二神将。ため息が出る。最高の仏教芸術。もちろん、信仰の対象として素晴らしいものであることは言うまでもない。以前は室生寺の金堂の仏像の良さがわからなかった。昔、私は、中心に「如来」、左右に脇侍として「菩薩」みたいな、安定感のある配置が好きだったのに、室生寺の金堂の仏像は、大きさも年代もバラバラで、内容的にも如来と菩薩が一緒に立っていて、微かな違和感を感じていたのだった。「雑多」とさえ思っていたのに。しかし現在は、こういうバラバラなものもありなのではないかと思っている。なにしろ贅沢である。これは一つの世界を形成している。ひとつの真理である。あるいは、スーパースターを揃えたサッカーチームのようで、このメンツは戦術やコンセプトを超えている。ちなみに金堂へは、特別拝観の期間などを除いて内陣に入ることはできない。回廊から拝むだけである。この建物は、仏のためのものなのだ。仏様の住まい。スーパースターの躍動するピッチ。人は外から見るだけ。それがいかにも仏と世界のあり方を象徴するようでもあるし、仏教のコンセプトを示しているようでもある。



室生寺の本堂(灌頂堂)。本尊は、日本三如意輪観音の一つと言われる、如意輪観音。これはただの像ではない。「念」がこもっている。大きなものではないが、存在感が違う。格別だ。何百年にもわたって信仰の対象となり、人に見られることで、洗練され、研ぎ澄まされ、最初の頃の顔とは変わってきているかもしれない。生き物とも、ただの像とも違う、別次元の何かというか、スペシャルな存在感を持つ。見たことのない人は、ぜひ一度は見て欲しい。そして実感してほしい。



室生寺の五重の塔。屋外にあるものとしては日本最小の五重の塔だ。16メートルしかない大きさで、写真で見るよりもさらに小さく、美しい。近年、破損したが、現在、元の姿を取り戻している。「女人高野」と呼ばれた室生寺五重塔は、貴婦人のような美しさをたたえている。


五重の塔の辺りまでなら、石段もそれほど急ではなく、普通のお寺巡りの感覚で来ることができる。ここまでならスニーカーでなくても歩ける。しかし、塔を超えたところから、坂も急になってくる。



見上げる。あと、あのくらい歩くのか。しかし私はそれほど疲れていない。子供はバテバテで、座り込んでいる。「座って休むと疲れるよ」と声をかけ、気持ちの中で子供の尻を叩き、歩きはじめる。


 
 


新緑の季節が好きだ。気候も真夏ほど暑くなく、風が吹くと爽やかで、汗を乾かせる。



青もみじ。



先が見えてきた。一番上まで行ったら先があった、なんてオチはありがちだが、室生寺でそれはない。あの上まで登ったところにきちんと奥の院がある。



奥の院。意外に疲れていなかった。自分も捨てたもんじゃない。まだまだやれると思った。子供も少し休んで復活していた。体力は子供でも、回復力が違う。


奥の院には奥の院参拝者のための納経所がある。ここまで登らないと、奥の院御朱印はもらえない。御朱印マニアにとっても嬉しい。ここでは、「弘法大師」と書いていただける。奥の院御朱印所には、御朱印界では有名な、非常に達筆で個性的な字の、年配の書き手の方がおられたのだが、この日はおられなかった。そういえば何年か前に行ったときにも姿を見かけなかった。辞めてしまわれたのだろうか。


奥の院のお堂は山の斜面にせり出しているので、回廊をぐるっと一回りすることができる。景色はそれほどでもないが、ベンチがあって、疲れた足を休めることができる。私は水筒を取り出して、水を飲み干す。これをするためにわざわざ大阪からやってきたのだ。



帰りの参道は下りなのでずいぶん楽だ。しかし足を踏み外さないように注意して歩く。上から、帰りに見る五重塔は違った風情を見せる。


私たちは室生寺に別れを告げる。太鼓橋を渡り、橋本屋を横目に通り過ぎ、行きに見かけた草餅を買って、車の中で食べる。そして、もうひとつの目的地であった大野寺に向かう。


大野寺はそれほど有名ではないかもしれない。「磨崖仏」の大野寺と言っても「あれね!」となる人は結構少ないのではないか。大野寺は、室生寺に向かう県道からそれたところにあるが、距離はそれほどでもない。行きに近くまで来ていたのだが、先に室生寺に行くことを優先した。


つづら折りの県道をしばらく走り、室生寺入り口交差点手前を宇陀川沿いの側道に入り、2〜3分も走れば大野寺の駐車場に到着する。大野寺は、宇陀川を挟んで、磨崖仏の彫られた断崖の対岸に位置している。



大野寺入り口。拝観受付などはなくて、拝観料は勝手に賽銭箱に入れるシステム。御朱印はお堂の受付でいただくことができるが、基本的に無人で、ベルを押すとおばあさんが大儀そうに出て来てくれるので、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そういうお寺なので、当然、ネット上に公式サイトなどもない。


大野寺は役行者の開基とされる古刹だが、明治期に火災により焼失する。現在の諸堂は以降に整備された、比較的新しいものだ。本尊は秘仏弥勒菩薩像で、本堂に安置されている。境内は、綺麗に整えられているが、古いお寺という風情は薄く、なんとなく生活感がある。境内に対岸の磨崖仏を望む拝所がある。



磨崖仏は、境内の拝所から拝むのが正式な参拝方法とされている。磨崖仏は彼岸にあり、こちらの側から、あちらの側を拝むというところに価値がある。



大野寺の磨崖仏は弥勒仏と言われ、後鳥羽上皇の発願により、1207年に刻まれたものだ。大きさは約14メートルで、山の断崖に刻まれている。磨崖仏とは、簡単に言うと自然の岩や断崖に彫られた仏像で、お堂の中の仏像とは違った迫力がある。広大な壁面に、わざわざ仏を彫るというメンタリティーと労力が信じられない。



お寺を出て河原に出てみると、磨崖仏に近づくことができる。写真の遠方の樹木に覆われていない白っぽい壁面に磨崖仏が彫られている。子供は川に石を投げているが放っておいて、私は磨崖仏の近くに向かう。



磨崖仏はずいぶん破損していたそうだが、最近の修復を経て、ずいぶん彫りが深くなっている。巨大なのに繊細だ。美しい仏様の姿を拝むことができる。



どうしてこんな河原に、これほど大きな磨崖仏を彫ることになったのだろう。子供につられて、なぜか私も川に石を投げている。私はいったい何をしているのだろう。久しぶりのお寺歩きで、テンションがおかしななことになっている。石は結構遠くまで届く。昔からボール投げは得意だったのだ。


最後になってしまったが、カメラは富士フィルムの『X-T1』を持って出た(→過去の記事「FUJIFILM『X-T1』を買う」)。リコー『GR』(→過去の記事「『RICOH GR limited edition』)や、キヤノンの『G9X』(→過去の記事「キヤノン『G9X』を買った」)という気分でなかったし、一眼レフという気分でもなかった。お寺を歩くのが主なので、それに合ったカメラとして選んだ。このカメラは、シャープネスは無茶苦茶すごいというレベルではないが、撮っていて気持ちが良い。それに色が良い。『ベルビア』モードで撮ると、まさに記憶色。いま振り返ってみて記憶の中にある色はこんな色だった。お寺の景色を自分の目とカメラのレンズに見せるみたいに、歩いて、仏に拝んで、写真を撮って、家に帰ってきた。