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ヴァレリー・アファナシエフ『最後の3つのソナタ』


先日、ベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタについて書いたことに関連して、今日はこれらの曲のまた別の一つの演奏について書いてみたい。


それは、現代の巨匠、ヴァレリー・アファナシエフによる演奏で、2003年10月27日に行われた、サントリーホールでのリサイタルのライブ録音である。CDは、メジャーレーベルではなく、富山県魚津市にあるクラシック音楽レーベル『若林工房』から発売されている。


ヴァレリー・アファナシエフベートーヴェン『最後の3つのソナタ』】

「心より出で、心へ通わん」作曲者と演奏者の心がひとつになった奇跡的瞬間。
現代屈指の鬼才による待望のベートーヴェンソナタ集。


≪収録曲≫
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 作品109
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第32番 ハ短調 作品111


この演奏の最大の特徴は、アファナシエフの他の演奏にも言えることだが、とにかく「テンポが遅い」ということだ。徹頭徹尾、アファナシエフのテンポは遅い。止まってしまいそうだと錯覚するところもある。速い演奏が好みの人や、急いでいる人、忙しい人には勧められそうにない。


このCDを初めて聴いたときには、他のピアニストの演奏とのあまりの違いにとても驚いた。同じ曲なのに、表現の仕方によって、こうも違うのか。丁度そのころよく聴いていたのが、フリードリヒ・グルダだったので(グルダの演奏は軽やかで速かった)、それと真逆の演奏だった。


例えば、32番の第2楽章の終盤、私はうんざりする一歩手前だった。この曲はとても好きで、いつもなら終わらないでほしいとさえ思う。だから、そんな気持ちになったことはとても珍しいことだった。実際の遅いテンポ以上に、遅く感じられ、この演奏はもしかすると終わらないのではないか、と思わされた。無限ループのような、袋小路に入り込んでしまったような、不安な気持ちすら抱かされた。これは普通の演奏ではない。ただならぬ演奏であることは確かだ。鬼才、ヴァレリー・アファナシエフ。未だかつてこんなに遅くこの曲を演奏したピアニストが他にいるだろうか。永遠に終わらないかと思われた演奏を、初めて聴いていた時、私は運転中だった。最後まで聴き通せると踏んで音楽をかけ始めたが、読みが甘かった。演奏のテンポは、私が予想した以上に遅かった。終わる前に目的地に到着してしまったために、曲を最後まで聴き通すことができなかった。終わらないかと思えた演奏が、本当に終わらなかった。私は車を停めて、エンジンを切った。車を降りた先で用事を済ませ、次の行程で、また最初から聴き直し、今度は最後まで聴き通すことができた。


しかしこの演奏は癖になる。何度も聴くと、次第にこの遅さに慣れてくる。それよりも内容の充実ぶりに気付くようになる。恐ろしいほどの緻密さで音楽が構成されており、それがこの遅さでじわじわと迫って来る。アファナシエフは流してくれない。決して急がないし焦らない。すべての音が平等であり、一つの音も疎かにしない。その信念は怖いほどだ。まるで曲と一体となり、固唾を飲んで見守る観客とも一体になろうとしている。音色は大変澄んでおり、非常によく響いている。彫りが深く、造形は立体的だ。私も普段この演奏を愛聴しているというわけではないが、時々、聴きたくなる。

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