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京都市美術館『ダリ展』と青蓮院


京都市美術館の『ダリ展』に行ってきた。7月1日から9月4日まで開催されている。開催前は、「真夏になってからでいいや」くらいに思っていたら、その夏が終わろうとしている。そろそろ行かないと本当に終わってしまう。


平日が休みだったので、先日ついに行ってきた。世間は盆休み明けなので空いているかと思ったが、結構混雑していた。入り口付近の展示室が特に人口密度が高く、「数珠繋ぎ」状態だった。「ダリ」、「京都」、「夏休み」という組み合わせを舐めていた。開館すぐでなく11時くらいだったのが悪かったのかもしれない。



京都市美術館は、他に京都国立近代美術館平安神宮京都市動物園がある、文化ゾーンにある。私は車で行って、岡崎公園駐車場に停めた。駐車料金に上限があるので、ここを拠点に京都観光をすることもできる。



混雑した展覧会では、オーディオガイドを借りて丹念に観ようと思えば、「数珠」の中に加わらねばならない。私は「数珠」に加わるのは昔から苦手なので、近くで鑑賞するのを諦める代わりに、自分のペースを守る。やや離れたところから鑑賞した。展示室の中には人の少ない部屋もあったので、そこではしっかり近付いて鑑賞した。作品の物理的な大きさ、筆遣いや色の鮮やかさ、陰影は実物を見ないと、実感としてわからない。美術館に行っていつも思うのは、実物の生々しい迫力は図録とは全然違うということだ。



今回の展覧会は十年ぶりの大規模な回顧展ということで、とても見ごたえがあった。ダリ財団、ダリ美術館、ソフィア王妃芸術センターなどのコレクションから選りすぐりの名画が集められていた。このレベルのものを日本で鑑賞できるのはすごい。昔行った美術館のように、数ある中にダリが少しある、というのではなく、ダリばかり。すべてがダリ。贅沢な時間だった。


私は『謎めいた要素のある風景』、『奇妙なものたち』、『子供、女への壮大な記念碑』、『ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌』が好きだった。『ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌』は広島、長崎への原爆投下をモチーフにした不吉な油彩で、グレー調の暗い背景に、爆発自体や、傾いた頭部と爆弾を落とす爆撃機アメリカを象徴するような野球選手、物理学の実験を象徴するような記号的なものが、暗示的に描かれている。ダリは原爆投下に相当な衝撃を受けたと説明されている。私は絵を観るだけだが、その衝撃が伝わってくるようだった。原爆投下という歴史的な出来事。この絵は取り返しがつかないことになってしまった世界を描いているのではないか。混雑が分散されていく後半に展示されていることもあって、その周辺がたまたま空いていたので、じっくり鑑賞できた。絵はがきを買おうと思ったが、原画の鮮烈な色を知った後では、買う気にならなかった。絵ハガキは大体いつも買っているので、珍しいことだった。


その後、せっかく京都まで来たので、京都市美術館だけ行って帰ってくるのも味気ないので、京都の夏の庭を観て帰ることにした。近くには沢山の名庭があり迷ったが、青蓮院に決めた。しばらく青蓮院には行っていなかった。


青蓮院には拝観のための無料駐車場がある。観光名所のお寺で無料というのは京都の市内では少ないので、とても良心的だ。



拝観受付を済ませて通路を歩き客殿に入ると、鮮烈な光景が飛び込んでくる。屋内が薄暗いので庭が光って見える。相阿弥の作庭による池泉回遊式の庭園で、私が京都で好きな庭園の一つだが、こんなに素晴らしいお庭だったか。久しぶりだったので、すっかり忘れてしまっていた。



拝観の順序が進んでいくと、庭園に下りることができる。庭園は緑が溢れ、少しは涼しいかと思ったが、全然そんなことはなかった。「暑い」というより「熱い」。太陽が近く感じる。この日の京都は、37度。体温よりも熱い。



それでも緑の中を歩くのは気持ちが良かったし、門跡寺院の中は、街中とは違う空気があった。『ダリ展』と比べるとずいぶん空いていて、盆休み明けらしい、静かな雰囲気だった。



美しい苔の庭の先に見えるのが青蓮院で最も大きな建物の宸殿である。


その時私は迷っていた。もう一つお寺に行こうか、決めかねていた。


苔の庭には鐘楼があり、自由に鐘を衝いても良いということだった。私は鐘を衝いた。鐘を衝いた後、合掌してみた。いつもお寺で鐘を衝くと、音が小さかったり、反対に音が割れて汚い音になったりするのだが、その日は音が割れるでもなく、ちょうどよい大きさで鐘が鳴った。よい塩梅だった。自分で言うのもなんだが、うまく衝けた。鐘の余韻の中、庭を後にして駐車場に帰って来た。鐘が良い区切りとなった。『ダリ展』も観ることができた。お寺ももういい。今日はもう終わることにした。祇園でさっと鯖寿司を食べて大阪に帰った。今日を終わらせる鐘の音となった。いや、今日どころか、あの鐘は私にとって今年の夏を終わらせるほどの、区切りの鐘だったのかもしれないと後で考えた。いつのまにか夜になると鈴虫の鳴き声が聞こえる季節となっている。