シフのピアノ協奏曲第20番
遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いいたします。
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正月は家族で久しぶりに帰省した。最近新幹線にあまり乗っていないので、子供だけでなく私も少し楽しみにしていた。何歳になっても新幹線は特別感がある。
新大阪から京都を過ぎると次の名古屋まで少し時間があるので、落ち着いて音楽を聴くことができる。さて、何を聴こうか。大晦日から元旦にかけて、なにも音楽を聴いていなかった。
さて、今年は2017年。手元のスマートフォンで、「2017年」、「メモリアル」、「作曲家」で検索すると、今年は私が好きな作曲家があまりいないのだった。
モンテヴェルディ(生誕450年)、テレマン(没後250年)、グラナドス(生誕150年)がメモリアルイヤーを迎えている。他には、ゲーゼ(生誕200年)、メユール(没後200年)、コダーイ(没後50年)。あまり馴染みがない。第一、私のiPod touchの中に入っていない。
スクロールさせていって、「M」のところでふと、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調が目に留まった。いいかもしれない。これだ。私はそういう曲を聴きたかったのだ。私のiPod touchには、アンドラーシュ・シフによるアルバムが入っていた。
- アーティスト: シフ(アンドラーシュ),モーツァルト
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モーツァルトは今年、全くメモリアルでないが、ちょうど今、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番を聴きたい気分となっていた。
モーツァルトは長調でも、泣ける旋律を書けた人なので、短調となると救いがないというか、聴いていて辛くなる時もある。ピアノ協奏曲24番は悲しすぎるし、交響曲第25番も激しすぎるので、あまり好んで聴かない。しかし20番はよく聴いている。悲しげではあるが、慈愛に満ちている。また、洗練された第二楽章の存在も効いていると思う。クラシック音楽を聴きはじめたころから、一貫して、この曲を聴いている。
静かで長い序奏が始まる。ピアノはしばらく入ってこない。まるで後世のショパンのピアノ協奏曲第一番のように、やや勿体ぶったタイミングで、おもむろにシフのピアノが入ってくる。雄弁ではないが、実に整ったピアノだ。
シフのピアノの魅力を一言で言うのは難しい。流れるように流麗なタイプではないし、石造りの門のように重厚でもない。ただひたすら丁寧で、誠実で、ストイックである。音色は一つ一つの音の粒が揃っていて、その輪郭も明瞭だ。いくら聴いても粗が見つからない。控えめ、というのが私が見つけ出した答えだった。
人前で演奏するピアニストに向かって、「控えめ」というのも変な例えになるが、そう感じてしまったので仕方がない。バリバリと弾きまくらないし、何というか、パーソナルな欲が感じられない。自然体で、モーツァルトが残した音だけに誠実に向き合っているように感じられる。自然の中から言葉を生み出す詩人のようでもある。
オーケストラのカメラータ・ザルツブルクのサウンドも素朴で飾りがない。映画『アマデウス』で描かれた古典の風景そのままのサウンドのようだ。オーケストラとピアノの調和も最高で、モーツァルトのピアノ協奏曲の演奏として、これはひとつの頂点だろう。ピアノはモダンピアノだが、もしこれがフォルテピアノなら、モーツァルト自身が聴いた響きはそんな音だったのかもしれない。
あまりにも心地よくて、つい睡魔が訪れる。儚くも美しい旋律がうたた寝のBGMとなってしまった。すっかり目が覚めたときには、併録されている21番の終盤に差し掛かっていた。