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休日にブルックナーを聴く


忙しい日が続くと、音楽を聴かずに終わる日が幾日も続くことがある。「ああ、今日は何も聴かなかったな」と自分で気付けばまだ良い方で、いつの間にか音楽を全然聴かなかった日が続いていた、ということが結構ある。


最近もそうで、ゴールデンウィークが始まる頃まで、しばらく音楽を聴いていなかった。連休が始まる前に、iPod touchを準備しているとき、「そういえば最近音楽を聴いていないな」と気付いた。


64ギガバイトiPod touchに何を入れるか。意外に沢山入らない。何故か長い曲ばかり入れたくなってしまった。オペラにブルックナーマーラー。何故か長い曲ばかり聴きたかった。限られた容量との兼ね合いで、私なりに結構、シビアな選択を迫られた。しばらく音楽を聴いていなかったので、できれば長い曲を聴きたかった。ブルックナーはどうか。ブルックナーが良いかもしれない。それも、長い8番。ブルックナーの8番の神聖な音楽が、こうしたブランクを埋めるのに最も適した音楽であるように思えた。また、新幹線でブルックナーを聴いたら、最後まで絶対に聴き通せる。仕事とか、来客が来たとか、家に着いたとか、そういう理由で邪魔されることはない。聴くときが楽しみで仕方がなかった。


そしてそんなに楽しみにしていたにもかかわらず、当日、私は失敗してしまう。弁当を買ったり、お土産を選んだり、子供が迷子にならないように注意しているうちに、またゴールデンウィーク中の新大阪駅の大混雑にも疲れて、新幹線に乗り、座席に着いた時には、安堵の気持ちしかなかった。惰性でiPodの再生アイコンをタップする。「オペラでも聴こうか」と、疲労のために半分、放心状態で、私がその時にかけた曲はモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』だった。3月ごろに村上春樹氏の『騎士団長殺し』にハマっていたので、iPodにそのまま入っていたのだ。


モーツァルト: 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

モーツァルト: 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」


「今日はブルックナーを聴く」ということは、忘却の彼方にあった。しかし『ドン・ジョバンニ』が相当良かった。良かったのが幸いだった。大体、オペラを忙しい時に聴くことはできない。時間がある休日に、オペラの録音を余裕をもって聴くのは最高だ。私は時間がない時には、よく序曲集などで気を紛らわせている。序曲集はベスト盤みたいなものだが、全曲版は、序曲に続きがある。いわばオリジナルのアルバムで、一つの世界が描かれている。私は久しぶりに聴く『ドン・ジョバンニ』の、暗示的で不吉な序曲から、その世界に引き込まれた。緊張感に満ちた冒頭の騎士団長殺しのシーンから、有名な『カタログの歌』、誘惑の歌『お手をどうぞ』など、名曲揃いのモーツァルトのオペラを味わう。が、無情にも、オペラの途中で、目的地に着く。『ドン・ジョバンニ』は2時間以上かかり、新幹線の時間では全然足りないのであった。


帰省の際にも色々なことがあったが、今回の帰省は、行きはブルックナーを聴くことを忘れた、帰りはブルックナーを聴くことを忘れなかった、そういう記憶として後々自分の中に残っていくかもしれない。


帰りはブルックナーを聴くことを忘れなかった。私はブルックナーの8番を選んだ。ブルックナー交響曲第8番は演奏時間が90分近い超大作で、内容的にも大変深い。聴く側にも「覚悟」が必要とされる曲だと思っている。こちらのコンディションもベストでないと、この曲の凄さを理解できない。また適当に聴いてしまっては申し訳ないような気持ちになる曲だ。



今回は、ヴァントがミュンヘン・フィルを振った2000年のライブ録音を選んだ。ヴァントのブルックナーの8番と言えば、2001年のベルリン・フィルのライブ録音の方が有名だが、あの演奏は今日は厳しすぎるように感じた。あの演奏はブルックナーの演奏の一つの頂点かもしれないが、マッチョで、強烈で、私はそういう気分でなかった。それと比べるとミュンヘン・フィルの方は、残響も多めにとられ、音色もやや古風で、それが温かみと柔らかさを感じる所以となっている。私は座席に座り、飲み物を飲んだりして少し過ごした後、iPod touchをカバンから取り出した。「B」のところまでスクロールさせていって、「Bruckner」を探す。そしてさらにスクロールさせていき「Bruckner-Wand」で、目的の曲でタップする。


第一楽章。やはりブルックナーの音楽だ。鬱蒼とした雰囲気の冒頭。地の底から這い出るような低音。場違いなほど大きな音。ミステリアスで魅力的な旋律が顔を出してはすぐに消える。一つ一つが一見無関係なように見えて、背後に有機的なつながりを持ち、最終的に壮大な統一を果たすような、いかにもブルックナーらしい音楽だ。これからどのような展開を見せるのか。この時点では全貌を窺うことはできない。


第二楽章。スケルツォ。9番のスケルツォほどではないが、冒頭、僅かに野蛮で、何となくグロテスクな旋律を持つ。クラシック音楽らしくないと言えば、クラシック音楽らしくない旋律で、中欧にもともと存在していたような古い音楽のような感じだ。その雰囲気を残したままノスタルジックで寂しげな旋律に展開していく。第三楽章を先取りしたかのような、泣かせる旋律が登場する。全体として、曲はまだ謎めいており、まだ氷山の一角にすぎない。続く第三楽章、第四楽章と、どれほど巨大で、どれほど素晴らしい音楽が展開していくのか。曲はスケルツォからトリオに展開し、穏やかな表情を見せたあと、最後はスケルツォに回帰する。


第三楽章。30分近い長大なアダージョ。穏やかな雰囲気だが、燃え上がるような部分もある。冗長なところは少しもない。緊張と弛緩が交互に支配する世界。長いアダージョ楽章を全く飽きもせず、固唾を飲んで聴き浸る。


第四楽章。フィナーレ。ブルックナーが書いた音楽の中で最も荘厳な曲ではないだろうか。堂々としていて、厳めしい。その威容はまるで大伽藍を思わせる。私はこの楽章を聴くと奈良の大寺院の伽藍を思い出す。均整が取れており、秩序立っている。古くて価値がある。人知を超えた何かがある。その柱は信念に基づいて作られている。続いて展開される主題は、第三楽章のアダージョを思い出させるような、内省的な旋律である。冒頭の主題に雰囲気が似た、行進曲風の主題を経て、曲は中盤に入っていく。


私が参考にしている書籍では第4楽章について以下のように書かれている。

「この楽章のコーダは、第四番を想起させるような、コラールを中心とする雄大な構成を示していくが、やがて金管スケルツォのモティーフを繰り返し、終楽章のファンファーレも響き渡り、第一楽章の冒頭主題が明るい長調のかたちに変化し、アダージョの二度上下するモティーフもホルンのパートに現れて、この曲の主だった素材が一堂に会するかたちで結びとなる。」

  • 『作曲家・人と作品シリーズ・ブルックナー』より(根岸一美氏著)


作曲家 人と作品 ブルックナー (作曲家・人と作品)

作曲家 人と作品 ブルックナー (作曲家・人と作品)


コーダで、ヴァントは急がない。ミュンヘンフィルも憎らしいほど急がない。高い山の頂上をいよいよ窺うという時になって、最後の歩みがより慎重になるように、大事に、とても大事に登っていく。これは並のコンサートではない。まるで数年に一度の祭礼のようだ。


フィナーレの感動は言葉では言い表せない。人間は死ぬときに過去の思い出が走馬灯のように駆け巡るというが、過去の旋律が走馬灯のように脳裏を駆け巡っている。全4楽章全てを聴き終えた時にはじめてわかるこの感動。「終わった」後に、「わかった」感覚。全体を見通すことができた時に、個々の部分の意味が分かったような感覚。まるで宇宙の中で自分の位置を確かめたような感覚と言ったら大げさだろうか。昔この曲の素晴らしさに知った時とまったく同じことを再確認した。休みということもあって、集中して聴くことができたことが大きい。ブルックナーの8番を聴くために整えられたかのようなコンディションだった。


そして私は音に支配された世界から、静寂の世界に突然放り出される。この録音はライブなのだが、演奏が終わってから拍手が始まるまで、10秒以上のブランクがある。当日の観客も、この演奏に圧倒されていたのだ。最後の音が鳴って12秒後に、拍手が始まる。その拍手も最初は遠慮気味というか戸惑い気味で、徐々に盛り上がっていくが、どこか放心状態な観客の心理を物語っているようで、当日の会場の空気がわかる。


久しぶりに聴いたブルックナーはとても印象的だった。心が浄化されたような特別な感覚。それはブルックナーだけにしかない特別なものだ。


そして私がiPod touchの画面を消すと、まるで図ったように、もうまもなく新大阪に到着するというアナウンスが聞こえてきた。そして、ブルックナーの休日も終わろうとしていた。