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休日にブルックナーを聴く


忙しい日が続くと、音楽を聴かずに終わる日が幾日も続くことがある。「ああ、今日は何も聴かなかったな」と自分で気付けばまだ良い方で、いつの間にか音楽を全然聴かなかった日が続いていた、ということが結構ある。


最近もそうで、ゴールデンウィークが始まる頃まで、しばらく音楽を聴いていなかった。連休が始まる前に、iPod touchを準備しているとき、「そういえば最近音楽を聴いていないな」と気付いた。


64ギガバイトiPod touchに何を入れるか。意外に沢山入らない。何故か長い曲ばかり入れたくなってしまった。オペラにブルックナーマーラー。何故か長い曲ばかり聴きたかった。限られた容量との兼ね合いで、私なりに結構、シビアな選択を迫られた。しばらく音楽を聴いていなかったので、できれば長い曲を聴きたかった。ブルックナーはどうか。ブルックナーが良いかもしれない。それも、長い8番。ブルックナーの8番の神聖な音楽が、こうしたブランクを埋めるのに最も適した音楽であるように思えた。また、新幹線でブルックナーを聴いたら、最後まで絶対に聴き通せる。仕事とか、来客が来たとか、家に着いたとか、そういう理由で邪魔されることはない。聴くときが楽しみで仕方がなかった。


そしてそんなに楽しみにしていたにもかかわらず、当日、私は失敗してしまう。弁当を買ったり、お土産を選んだり、子供が迷子にならないように注意しているうちに、またゴールデンウィーク中の新大阪駅の大混雑にも疲れて、新幹線に乗り、座席に着いた時には、安堵の気持ちしかなかった。惰性でiPodの再生アイコンをタップする。「オペラでも聴こうか」と、疲労のために半分、放心状態で、私がその時にかけた曲はモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』だった。3月ごろに村上春樹氏の『騎士団長殺し』にハマっていたので、iPodにそのまま入っていたのだ。


モーツァルト: 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

モーツァルト: 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」


「今日はブルックナーを聴く」ということは、忘却の彼方にあった。しかし『ドン・ジョバンニ』が相当良かった。良かったのが幸いだった。大体、オペラを忙しい時に聴くことはできない。時間がある休日に、オペラの録音を余裕をもって聴くのは最高だ。私は時間がない時には、よく序曲集などで気を紛らわせている。序曲集はベスト盤みたいなものだが、全曲版は、序曲に続きがある。いわばオリジナルのアルバムで、一つの世界が描かれている。私は久しぶりに聴く『ドン・ジョバンニ』の、暗示的で不吉な序曲から、その世界に引き込まれた。緊張感に満ちた冒頭の騎士団長殺しのシーンから、有名な『カタログの歌』、誘惑の歌『お手をどうぞ』など、名曲揃いのモーツァルトのオペラを味わう。が、無情にも、オペラの途中で、目的地に着く。『ドン・ジョバンニ』は2時間以上かかり、新幹線の時間では全然足りないのであった。


帰省の際にも色々なことがあったが、今回の帰省は、行きはブルックナーを聴くことを忘れた、帰りはブルックナーを聴くことを忘れなかった、そういう記憶として後々自分の中に残っていくかもしれない。


帰りはブルックナーを聴くことを忘れなかった。私はブルックナーの8番を選んだ。ブルックナー交響曲第8番は演奏時間が90分近い超大作で、内容的にも大変深い。聴く側にも「覚悟」が必要とされる曲だと思っている。こちらのコンディションもベストでないと、この曲の凄さを理解できない。また適当に聴いてしまっては申し訳ないような気持ちになる曲だ。



今回は、ヴァントがミュンヘン・フィルを振った2000年のライブ録音を選んだ。ヴァントのブルックナーの8番と言えば、2001年のベルリン・フィルのライブ録音の方が有名だが、あの演奏は今日は厳しすぎるように感じた。あの演奏はブルックナーの演奏の一つの頂点かもしれないが、マッチョで、強烈で、私はそういう気分でなかった。それと比べるとミュンヘン・フィルの方は、残響も多めにとられ、音色もやや古風で、それが温かみと柔らかさを感じる所以となっている。私は座席に座り、飲み物を飲んだりして少し過ごした後、iPod touchをカバンから取り出した。「B」のところまでスクロールさせていって、「Bruckner」を探す。そしてさらにスクロールさせていき「Bruckner-Wand」で、目的の曲でタップする。


第一楽章。やはりブルックナーの音楽だ。鬱蒼とした雰囲気の冒頭。地の底から這い出るような低音。場違いなほど大きな音。ミステリアスで魅力的な旋律が顔を出してはすぐに消える。一つ一つが一見無関係なように見えて、背後に有機的なつながりを持ち、最終的に壮大な統一を果たすような、いかにもブルックナーらしい音楽だ。これからどのような展開を見せるのか。この時点では全貌を窺うことはできない。


第二楽章。スケルツォ。9番のスケルツォほどではないが、冒頭、僅かに野蛮で、何となくグロテスクな旋律を持つ。クラシック音楽らしくないと言えば、クラシック音楽らしくない旋律で、中欧にもともと存在していたような古い音楽のような感じだ。その雰囲気を残したままノスタルジックで寂しげな旋律に展開していく。第三楽章を先取りしたかのような、泣かせる旋律が登場する。全体として、曲はまだ謎めいており、まだ氷山の一角にすぎない。続く第三楽章、第四楽章と、どれほど巨大で、どれほど素晴らしい音楽が展開していくのか。曲はスケルツォからトリオに展開し、穏やかな表情を見せたあと、最後はスケルツォに回帰する。


第三楽章。30分近い長大なアダージョ。穏やかな雰囲気だが、燃え上がるような部分もある。冗長なところは少しもない。緊張と弛緩が交互に支配する世界。長いアダージョ楽章を全く飽きもせず、固唾を飲んで聴き浸る。


第四楽章。フィナーレ。ブルックナーが書いた音楽の中で最も荘厳な曲ではないだろうか。堂々としていて、厳めしい。その威容はまるで大伽藍を思わせる。私はこの楽章を聴くと奈良の大寺院の伽藍を思い出す。均整が取れており、秩序立っている。古くて価値がある。人知を超えた何かがある。その柱は信念に基づいて作られている。続いて展開される主題は、第三楽章のアダージョを思い出させるような、内省的な旋律である。冒頭の主題に雰囲気が似た、行進曲風の主題を経て、曲は中盤に入っていく。


私が参考にしている書籍では第4楽章について以下のように書かれている。

「この楽章のコーダは、第四番を想起させるような、コラールを中心とする雄大な構成を示していくが、やがて金管スケルツォのモティーフを繰り返し、終楽章のファンファーレも響き渡り、第一楽章の冒頭主題が明るい長調のかたちに変化し、アダージョの二度上下するモティーフもホルンのパートに現れて、この曲の主だった素材が一堂に会するかたちで結びとなる。」

  • 『作曲家・人と作品シリーズ・ブルックナー』より(根岸一美氏著)


作曲家 人と作品 ブルックナー (作曲家・人と作品)

作曲家 人と作品 ブルックナー (作曲家・人と作品)


コーダで、ヴァントは急がない。ミュンヘンフィルも憎らしいほど急がない。高い山の頂上をいよいよ窺うという時になって、最後の歩みがより慎重になるように、大事に、とても大事に登っていく。これは並のコンサートではない。まるで数年に一度の祭礼のようだ。


フィナーレの感動は言葉では言い表せない。人間は死ぬときに過去の思い出が走馬灯のように駆け巡るというが、過去の旋律が走馬灯のように脳裏を駆け巡っている。全4楽章全てを聴き終えた時にはじめてわかるこの感動。「終わった」後に、「わかった」感覚。全体を見通すことができた時に、個々の部分の意味が分かったような感覚。まるで宇宙の中で自分の位置を確かめたような感覚と言ったら大げさだろうか。昔この曲の素晴らしさに知った時とまったく同じことを再確認した。休みということもあって、集中して聴くことができたことが大きい。ブルックナーの8番を聴くために整えられたかのようなコンディションだった。


そして私は音に支配された世界から、静寂の世界に突然放り出される。この録音はライブなのだが、演奏が終わってから拍手が始まるまで、10秒以上のブランクがある。当日の観客も、この演奏に圧倒されていたのだ。最後の音が鳴って12秒後に、拍手が始まる。その拍手も最初は遠慮気味というか戸惑い気味で、徐々に盛り上がっていくが、どこか放心状態な観客の心理を物語っているようで、当日の会場の空気がわかる。


久しぶりに聴いたブルックナーはとても印象的だった。心が浄化されたような特別な感覚。それはブルックナーだけにしかない特別なものだ。


そして私がiPod touchの画面を消すと、まるで図ったように、もうまもなく新大阪に到着するというアナウンスが聞こえてきた。そして、ブルックナーの休日も終わろうとしていた。

神戸元町 『洋食屋双平(SO-HEY)』

神戸の元町に行った時、『洋食屋双平(SO-HEY)』に行った。有名なお店で、以前から行きたいと思っており、幾度となくこの周辺を通ったことがあるのに、不思議と今まで行く機会がなかった。



『洋食屋双平(SO-HEY)』は、神戸元町の中華街・南京町のメインストリートから一本入ったところにある。南京町の中心部は中華料理店や中国雑貨店ばかりだが、一本横道に入ると、西洋風のオシャレなカフェやセレクトショップがある。歩いていてとても楽しいエリアだ。



その日私は購入したてのカメラを首からぶら下げていた。南京町の中華街を歩いていると、まるで自分が今日の午前の便で北京に到着して、ホテルにチェックインしたあと、いよいよ町に繰り出した旅行者みたいだと錯覚する。そんなオリエンタルなムード満点の中華街を散策し、路地に入ったところで店を見つける。



開店直後の11時過ぎで既にカウンターには二人、先客があった。カウンターメインで7席くらいのこじんまりとした店だ。見かけは「ジモトのこじんまりとした喫茶店」で、常連客に心地の良さそうな雰囲気である。カウンター越しの厨房側の壁の棚にはミニカーやモデルガン、クラシカルなフィルムカメラなどが置かれている。趣味の店、という感じだ。雑貨屋、喫茶店でこういう雰囲気は多いのかもしれないが、洋食店では珍しい。


こちらの店の名物は、ドビーライスとミンチカツだ。ドビーライスとはデミグラスベースのソースがかかった、この店のオリジナルメニューらしい。今回の私の目的はミンチカツだった。


私はミンチカツ2個とエビフライがセットになっている、ミックス定食を注文した。900円と書かれていた。神戸の有名洋食店であるのに、この価格は安い。


お店はご主人と奥さんで経営されている。奥さんが生野菜とマカロニサラダの盛り付けや、ご飯の準備を行っている。


ミンチカツって、あまり店で食べるイメージがない。コロッケは買うが、ミンチカツはあまり買わない。しかし昔を思い出してみると、子供の頃にはよく食べていた食べ物で、近所の肉屋でコロッケと一緒の売られていたり、スーパーのお惣菜として売られているものを家族が買ってきて家で食べていた。また家でトンカツを揚げるときには、一緒にミンチカツが食卓に上っていたことを思い出した。私の故郷では「ミンチカツ」ではなく、「メンチカツ」あるいは短縮して「メンチ」と呼んでいた。日本の東の方では「メンチ」、西の方では「ミンチ」と呼ぶのだろうか。そういえば最近、ミンチカツを食べたのはいつだろう。いつ以来だろうか。私はスマートフォンをカバンの中に入れたまま、本も開かず、御主人の趣味の世界が広がっている壁の棚を見つめながら、そんなことを考えていた。


カウンターの上に、これから準備する客の数の皿が並べられ、すでにサラダが盛り付けられている。ご主人はフライを揚げ、揚がったものからザクッと包丁で切り、皿にのせる。そしてソースをたっぷりかけて、すぐに提供される。同時に、奥さんがご飯を用意してくれる。先客の2人の分の定食が先に提供される。ミンチカツだけのセットを注文していたようだった。値段は調べなかったが、エビフライ入りの私が注文したものよりも安いはずだ。900円より安いとすれば、700円くらいだろうか。それなら毎日通って食べられるだろう。こういう店が会社の近くにあるのであれば、とても羨ましい。


続いて私の分が目の前に置かれた。



『洋食屋双平(SO-HEY)』のミンチカツは、揚げたてなので、熱々で美味しい。衣は重くなく、カラッと揚がっている。中身はたっぷりのミンチ肉だ。粗挽きで、細かく刻んだタマネギが入っている。そのまま焼けばハンバーグにでもなりそうなミンチ肉だ。ハンバーグなら割とどこでも食べられるが、ミンチカツとなるとそうはいかない。ミンチカツを名物にしている店は意外に少ない。だから、これは店で食べる価値がある。ソースは、長時間煮込んだと思われる、少し苦みが感じられる濃厚なドミグラスソースだ。たっぷりかかっているのが嬉しい。


エビフライも良かった。ぎゅっと身の詰まった、なかなかのエビだった。


それと、私はたっぷりのサラダも嬉しかった。ファミレスやチェーンのレストランではこうはいかない。野菜は高いが、それを出す必要がある。これくらいのメインにはこれくらいの野菜がいる。しっかりと野菜を提供する、サービス満点な店なのだった。そういうポリシーの店は良い店であるはずだ。


そろそろ食べ終わるころに、次の客がドアを開ける。「四人なんですけど家族行けますか。」という声が聞こえ、ベビーカーにのせた小さな子供が見える。「奥のテーブルにどうぞ。」とご主人が答える。気付かなかったが、奥にテーブルが見えた。小さな子はカウンターだと厳しそうだが、あのテーブル席なら家族でも食べられそうだ。



私は一人の食事を終えた。味もよく、雰囲気も良く、感じも良い店だった。その日はまだ午前中が終わったばかり。時間はたっぷりあった。南京町を歩きながら、頭の中で、これから神戸のどこに向かおうか計画を立てていた。

【洋食屋双平(SO-HEY)】

住所/兵庫県神戸市中央区栄町通2-9-4川泰ビル1F
営業時間/11:00〜17:30(L.O.17:00)
定休日/水曜

醍醐寺の桜


醍醐寺に桜を見に行ってきた。


例年、4月にはどこか桜を見に行っているはずだが、見頃でなかったり、行った場所がそもそも桜の数がそれほど多くなかったりして、「春に桜を見に行った」という印象がここ最近あまり残っていない。思い出してみると、何年か前に根来寺粉河寺に行ったのを覚えているのと、さらにそれより数年前に上賀茂神社で桜を見に行ったこと、同じくらいの頃に吉野に行ったことが記憶に残っているくらいだ。一昨年、去年と、どんな桜を見たのか覚えていない。


今年は桜をしっかり見たい。それも圧倒的な桜。圧倒的な桜を見たい。今、どこに行けば圧倒的な桜が見られるのか。吉野はまだ早いだろう。私はピーンときた。醍醐寺だ。「醍醐の花見」で知られる通り、豊臣秀吉が花見の一大イベントをやったくらいのところなのだ。圧倒的に決まっている。


京都の洛南にある醍醐寺は、西国三十三ヶ所の札所でもあり、素晴らしい仏像を擁する古刹だ。三宝院の庭園も素晴らしいし、霊宝館も見ごたえがある。私が醍醐寺を訪れるのは4回目となるが、桜の季節は初めてだった。


醍醐寺への経路は色々あるが、とりあえず家を出て、大阪からJRに乗り、山科駅で降りる。山科駅あたりからすでに目立つのが醍醐の桜目当ての行楽客だ。普段の山科駅とは思えないくらいの混雑だ。私は最近あまり人が大勢いる行楽地に出かけることがないので、既に圧倒されている。


バスはお寺のすぐ近くまで行けるが、京都市営地下鉄で醍醐まで乗る。醍醐駅で大量の人が降りる。まるで地下鉄梅田駅や難波駅みたいに大量に人が降りる。今日は日曜日だったかなと錯覚する。平日の午前である。


醍醐駅からは京都らしくない、現代的できれいに舗装された団地のなかの道を歩いて15分くらいで醍醐寺の総門が見えてくる。駅を降りて道に迷うことはない。醍醐寺への参道は、祭りに向かう列のように、人の波が出来ている。



総門を抜けて境内に入ると、まるで別世界だ。桜の馬場と呼ばれる参道は、右を見渡しても桜。左を向いても桜。上を見上げると桜。という訳で桜に圧倒される。こんなにも贅沢な場所があったのか。


私は1,500円支払って拝観券を買い(拝観券を買い求める列ができている)、歩き出す。左手に三宝院、右手に霊宝館があるが、ひとまず置いておいて、まずは伽藍に向かう。桜の馬場を歩き、仁王門を抜けて、伽藍に足を踏み入れる。



金堂を横手の桜越しに撮影する。金堂には、醍醐寺の本尊である薬師如来像が鎮座している。



醍醐寺五重塔は京都最古のもの。高さ38メートルで、同じ京都の東寺や法観寺のものよりも低い。「醍醐寺に五重の塔があったんや〜」と近くの人が話す声が聞こえる。五重塔と言えば、興福寺や東寺は有名だが、醍醐寺五重塔はあまり有名でないのかもしれない。しかし千年以上昔に出来た京都でも最も古い建物の一つだ。


「桜酔い」という表現をしたくなるくらい、境内は桜に満ちている。不動堂、祖師、観音堂など伽藍を歩き、仁王門まで戻って来る。観音堂では、御朱印の列が凄まじかった。お堂の中の納経所から堂内を縦断し、入り口のスロープ付近まで行列が伸びている。平日でこれだったら、土日はどうなるのだろうか。


そして私は最初はスルーした三宝院の門を抜ける。ものすごい人だかりである。日曜日のヨドバシカメラみたいな状態になっている。多くの人の目当ては、ある一つの桜である。



三宝院の前庭にある枝垂れ桜。別名、「太閤枝垂れ桜」。太閤秀吉が愛したという桜というイメージが脳裏に浮かぶ。



スーパースター級の桜。歴史的な桜。



三宝院の庭園。桃山時代風の庭園であり、「醍醐の花見」に際して、豊臣秀吉が自ら設計をした庭だと伝えられている。私はこの庭園が大変好きだ。




庭園の拝観を終え、再び「太閤枝垂れ桜」を目に焼き付ける。


もうかなりの桜を見たはずだった。一生分くらいの桜を見たかもしれない。しかしそれで終わらないのが醍醐寺であった。霊宝館をまだ見ていなかったので、霊宝館の方に向かう。私は霊宝館の仏像のファンなので、最後に取っておいたのだった。仏像は素晴らしかった。しかし桜が圧倒的だった。



霊宝館の敷地に足を踏み入れると、すぐに視界に入って来る枝垂桜。見事だった。しかしこれだけで終わらない。それはまだ序章だった。



醍醐寺の境内でも有名な通称「醍醐深雪桜」。「太閤枝垂れ桜」と並ぶツートップの「有名桜」だ。




霊宝館の背面の散策路にも素晴らしい桜が控えている。醍醐寺は本当にすごい。



醍醐寺の桜は、ソメイヨシノ、枝垂桜、山桜、八重桜など沢山の種類の桜が、それぞれ違った頃に見頃を迎えるので、3週間も楽しめるという。これほど桜を一度に見たのは初めてだ。圧倒され、目が回りそうだった。しかしそういう体験をしたくて、わざわざ電車を乗り継いで、醍醐まで来たのだった。充実した一日だった。


醍醐寺の桜は、プロ野球に例えるなら、オールスターだ。お祭りでありながら、レベルも高い。これは人が集まるわけだ。日本全国、いや世界中からこの桜を見るために醍醐寺に集結しているのだ。醍醐寺の桜は圧倒的だった。

パーヴォ・ヤルヴィの交響曲第1番『春』


季節ごとにそれぞれ聴きたい曲がある。例えばベートーヴェンの第九は年末に聴きたいし、ウィンナワルツは新年に聴きたい。ブラームスの4番を真夏に聴きたいとはあまり思わないし、シベリウス交響曲も夏には似合わない。


シューマン交響曲第1番『春』は、よく知られている標題の通り、私は春に聴きたい。ちょうど今くらいがぴったりで、私の中では春に聴きたい曲ベストワンだ。



今朝、散歩の途中、近所の桜を見に行ったが、まだ開花して間もないくらいだった。これから一週間で五分咲き、七分咲き、満開へと一気に進み、2週間も経つと完全に散ってしまう。今はまだ咲きはじめ。まだ冬用のコートが必要なくらいに早朝は肌寒い。シューマン交響曲第1番『春』は、今くらいの季節にぴったりな曲だと思う。


この曲には、もともとのバージョンでは、各楽章にとても春らしい標題が与えられていた。

第1楽章: 春のはじまり、谷間の春
第2楽章: 夕べに、牧歌
第3楽章: 楽しい遊び
第4楽章: たけなわの春


この曲はとてもシューマンらしい曲だと思う。感受性が豊かで、大変美しく、尖っていて、少しグロテスク。ドイツの作曲家のものを聴きたい時、気分的にベートーヴェンでも、ブラームスでも、メンデルスゾーンでもない時に、意外にシューマンが合う。


■国内盤

シューマン:交響曲第1番「春」&第3番「ライン」

シューマン:交響曲第1番「春」&第3番「ライン」

■輸入盤

Schumann: Symphonies No.1 Spring & No.

Schumann: Symphonies No.1 Spring & No.


CDはパーヴォ・ヤルヴィのものを選ぶ。若く、透明感があって、溌剌とした音色を持つオーケストラのキャラクターが、この曲の雰囲気と合っている。オーケストラは能動的で、指揮者との共同作業を心から喜んでいるようだ。パーヴォ・ヤルヴィの音楽作りは、生命力に満ちている。ヤルヴィのタクトで、世界が突然、モノクロの世界からカラーの世界に変わったように、鮮やかな色彩を描き出す。春らしい快演だ。

富士フィルム『X100T』を買った


富士フィルムのデジカメ『X100T』を買った。



『X100』シリーズと言えば、何と言っても、光学ファインダー(OVF)とEVFを自在に選択できる「ハイブリッドビューファインダー」だ。光学ファインダーは、昔のレンジファインダーカメラのようであるが、ファインダー内に、ISO感度、ホワイトバランス、シャッター速度などの撮影情報が表示され、撮影位置を示すフレームも焦点距離に応じて移動する。水準器まで表示可能だ。そしてEVFに切り替えると、最新鋭のミラーレスカメラとなる。EVFの映像は自然な写りなので、一瞬、光学ファインダー越しの実像と勘違いするほどだ。


昔のフィルムのコンパクトカメラを思わせるレトロな外観なのに、その中身は最新のテクノロジーであるというのが良い。『X100』シリーズは初代の『FinePix X100』が発売されたときから、いつか買おうと思っているうちに、買い時を逃し、『X100S』、『X100T』へと進化し、今年の2月には四代目である『X100F』が発表された。10万円以上という価格も、躊躇するポイントだった。それに私は他にもカメラは沢山持っていた。


『X100F』が発表されたというのに、『X100T』の値段はそれほど安くなっていない。迷っていた。そうこうしているうちに、(まともな値付けがされている)在庫も少なくなっているようだ。『X100T』も買い逃してしまうのか。焦っていた。私はある晩、オンラインショッピングで衝動的に、『X100T』をカートに入れ、クレジット決済をしていた。そして次の日には『X100T』が家に届いていた。(しかし2017年3月末現在、まだ品切れにはなっていないようである。急ぎ過ぎたか。)



『X100T』の購入後、店頭で、『X100F』を触ってみて、さらにクラシカルな雰囲気を増したシルバーの色合いに、やっぱり新型にすればよかったかと思ったが、考えてみると、2400万画素は私には要らない。それに、バッテリーの持ちも旧型の方が良い。そう強がっている。実際、迷った末に手に入れたカメラを、買ってから1か月以上経つのに、いまだに夜な夜なカメラバッグから取り出して触ってみて、納得している。本当に、『X100T』を手に入れ、私は幸福で、どこに出掛けるにも持って行っているくらいなのだ。



大阪に出掛けて行ったある日、写真を撮ることが目的というわけではなかったが、『X100T』をカバンに入れてきた。ヨドバシカメラに寄って、グランフロント、大丸へと私が大阪に行くときのいつものコースを歩いている時、カメラは首にぶら下げておいた。



平日の大阪駅は土日に比べると人が少ない。土日の午後などは、どこの店も混んでいて、喫茶店なども外まで人が並んでいるくらいで、ベンチでさえ座る場所にも苦労するくらいだが、平日なら、店内で本格的な珈琲を楽しむことだってできる。



人気の中華料理店も平日は空いている。『X100T』は目立たないので、テーブルに置いていても変に浮いたりしない。



35ミリの画角が私にとっては心地よい。昔、フィルムカメラで京セラの今はなきコンタックス『T3』を愛用していた時から(いまもそのカメラを大事に持っている)、35ミリは自分にとって標準の画角だった。風景を撮っても、人物を撮っても、花を撮っても、近景を撮っても、遠景を撮っても、巧い写真でも、下手な写真でも、35ミリはオールマイティーだ。もちろん、料理を撮っても、とても美味しそうに写っている。それはカメラの問題ではなく、単に私が食いしん坊だからか。


またある日には京都に行った。京阪電車で1時間弱。好きな本も持ってきていた。久しぶりに読書に最適な時間を確保できることの幸福感は、他に例えようがない貴重なものだ。



祇園四条京阪電車を降りて、路地に入っていく。町屋と石畳が一際目を引く、京情緒満点のエリア、祇園白川を歩く。まだ人通りの少ない時間帯で、私の首にはスマートフォンのネックストラップではなく、『X100T』がぶら下がっている。



白川を挟んで右手には老舗高級旅館『白梅』。ちょうど梅が見頃を迎える季節だった。梅が目印だから『白梅』なのか、と当たり前のことに納得する始末である。



四条大橋を渡って、河原町方面に出る。木屋町通手前の先斗町通りを右に曲がる。蛇くらいしか通れないような細い路地の左右に、料亭が並んでいる。それらの店が出す納涼床は京都の夏の風物詩となっている。就職したときに、一度、両親に親孝行をしようと京料理を食べさせたことがあったが、結構な値段だった。この通りを歩くといつもその時のことを思い出す。



こういうセンス。京都らしさを演出するセンスが憎い。



そんな感じで、最近、私はどこへ行くにも『X100T』を携えている。35ミリの単焦点なので撮れる写真に限界があるが、そんなことはお構いなしだ。被写体に対してレンズの焦点距離を選択するのでなく、このカメラで撮れる範囲に収める。この画角で手を打つ。割り切り。単焦点の楽しさを思い出した。



買ってから1か月以上経つが、こんなに幸福な気持ちになれた買い物は久しぶりだ。

いろいろな『ゴルトベルク変奏曲』


クラシック音楽を聴きはじめた頃から今までずっと好きな曲がいくつかある。『ゴルトベルク変奏曲』はそんな好きな曲の中の一つだ。最初と最後のアリアと、全部で30曲の変奏曲の中には、好きな曲、それほど好きではない曲があるが、嫌いな曲は一つもなく、当然ながら不要な曲は一つもない。それだけで完結した、完璧に調和した、ひとつの世界を描いているのではないか。完全な美しさというのはこういうことを指すのかと思う。少し聴いてみようか、という軽い気持ちで聴きはじめたのに、冒頭のアリアから、最後のアリアまで、聴き通してしまうこともよくある。


私は昔、まずグレン・グールドとマレイ・ペライアを聴き、グレン・グールドは旧録音も聴き、グスタフ・レオンハルトチェンバロ演奏版を聴き、他にも色々聴いてみて、次から次へとCDが増えていった。それらのうちのどれも違った趣があり、飽きずに、今でもかなりの頻度で聴いている。


そんな『ゴルトベルク変奏曲』は、鍵盤楽器以外でも演奏される。弦楽器版は当然ながらあるが、ギターや、アコーディオンやハープまで。他にもたくさんの楽器で演奏されている。そういうものは純粋なクラシック音楽ファンからは、際物扱いされるのかもしれないが、聴いてみるとこれがまた素晴らしいのである。私はこの曲をつくづく好きなのだと再確認する。


■ハープ版(ハープ:カトリン・フィンチ演奏)


バッハ:ゴルトベルク変奏曲

バッハ:ゴルトベルク変奏曲


まずはハープだ。親しんだメロディがこんなにも違う音色で鳴っていることに対する驚きがある。これはもうバッハではないみたいだ。どこかの島で精霊が奏でている繊細な調べのようだ。ハープの音色は、チェンバロよりもさらに素朴で、古風な響きだ。


■ギター版(ギター:カート・ラダーマー演奏)


Goldberg Variations

Goldberg Variations


聴く前の想像では最もフィットするのではないかと思われたギター版。『無印良品』の店のBGMみたいに心地よく、まるでこの楽器のために書かれた曲のように、完璧に、ギターのための音楽となっている。曲は『ゴルトベルク』なのに、聴いた印象としては、これは「バッハ」というよりも「ゴンチチ」だ。ギターは多重録音なので、一人のギタリストによる作品なのに、立体的で奥行きがあって、その点ではまるでエンヤみたいでもある。この演奏はとても気に入っていて、鍵盤楽器版以外では、私が最もよく聴いている録音である。


アコーディオン版(アコーディオン:ヤンネ・ラッターヤ演奏)


J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988

J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988

古き良き時代へのノスタルジー。レトロな音色。人の温かみをを感じるような演奏だ。アコーディオンの響きがパリっぽい。パリのストリートミュージシャンが、雑踏のなかで演奏していそうな風情だ。モンマルトルの丘とか、ムーラン・ルージュなど、「いかにもパリ」という風景が似合いそうだ。アコーディオン版のバッハは、ドイツ人ではなく、フランス人として生まれてきた作曲家のようだ。


他にも『ゴルトベルク変奏曲』の演奏には、弦楽三重奏版や、サックス版なんてものもあり、それぞれに雰囲気があって、聴く価値がある。この曲の懐の広さだと思う。

『きっしゃん』で「一人焼肉」ランチ


その日は連休の最終日だった。連休なのにたいした用事をせずに、休みの最終日を迎えていた。


遠くに行けば、相応に充実した一日を過ごせそうだが、翌日の仕事に障りそうだ。かといって家で寝ているのも勿体ない。そうこうしているうちに時間が無情に過ぎていく。せめて、何か、旨いものを食べよう。そうだ、肉にしよう。焼肉を食べに行こう。とはいえ、そんな急な思い付きに付き合ってくれる友達も家族もいなかった。第一、その日は私の休日であっても、世間は平日だったからだ。


そもそも私は「一人焼肉」が好きで、時々、思い出したように一人で行っている。「一人焼肉」とは文字通り、一人で食べる焼肉のことだ。焼肉という、大勢で集まることのできるイベントを、たった一人で孤独に楽しむ。そんな寂しい、「一人焼肉」を、私は、よくあるカウンターの、一人向けの店の、いわゆる焼肉定食ではなく、大勢で来られることを想定した焼肉屋でおこなっている。多くの場合、周りは宴会、横を見ると家族、なんとなくアウェイ、という環境の中、最初の時は、場違いなように自分でも感じられたが、何度も行くうちに抵抗がなくなった。ホームかアウェイかは気分の問題、というのが私の結論だ。


私は、休みの最終日に、突如、焼肉を食べに出掛けて行った。なんばまで行って、高島屋エスカレーターで8階に上がる。向かったのは『きっしゃん・なんば店』という店だった。


『きっしゃん』の本店は大阪の西中島にある。私が知っているのは、なんばの高島屋天王寺近鉄百貨店にある店舗だ。店の前を通ったことはあるが、入るのは初めてだ。内容的には、高級店に属するのかもしれない。佐賀牛をメインにA5ランクの国産牛を一頭買いしているらしい。デパートの中の店舗ということもあって、大阪・鶴橋の焼肉屋が密集するエリアの店のような座敷で食べるのとは雰囲気が違う。雰囲気はお洒落で、『叙々苑』(よりは安いが)みたいな感じだろうか。


店に入るとまず、テーブルが目に入る。二人掛けの席が多く、一人での食事が苦手な人も大丈夫なはずだ。実際、ランチタイムは、ハンバーグの定食などもあって、一人客も多かった。女性の一人客もいたので、女性にも入りやすい店だと思う。他には、私のように、一人黙々と焼肉を食べる男性客、買い物の途中らしい年配の女性、30代くらいのカップル、年配の夫婦という客層だった。人気店だが、平日であり、混雑していなかった。


私は、3,800円(税抜き)の『一頭ランチ』を注文した。 様々な部位がセットになっているランチ限定のメニューだ。内容は、焼き物としては、クラシタ、和牛赤身ロース、特上カルビ、特上サーロイン、野菜に、サラダ、スープ、牛肉のしぐれ煮とキムチ、そして最後にデザートが付く。 



タレは、特製の焼肉だれに加え、塩だれ、ポン酢が用意される。付き出し的なキムチに牛肉のしぐれ煮。それだけでご飯一杯は食べられる。肉が来る前に、ご飯が進んでしまう。



肉が出てくる。すごい肉だ。霜降りの上等な肉だ。ステーキにも使えるような、見るからに高そうな肉。3,800円というとランチにしては高価だが、夜に同じ内容を食べたら、倍近くかかるのではないか。ランチはリーズナブルだ。


肉はたれに漬け込んでおらず、塩コショウで最低限の味付けがされているだけだ。塩コショウでそのまま、肉自体を味わっても良いし、3種類のたれを好みで選んでも良い。


焼くのが勿体ないが、焼かなければ始まらない。焼肉は、複数で来ると最初は集中して焼いていたのに、最後の方は食べることが第一目的であることを忘れたように、焦がしてしまったりすることがあるが、一人だと肉に集中できる。


脂が多めなのですぐに火が通る。口にいれると、普通の肉ではない。私が普段食べているような肉ではない。肉を極めると肉でなくなる。出来立ての豆腐のような柔らかさ。そして甘い。これは、なかなか味わえない肉だ。なんとも贅沢。


肉を焼いている時、私はなぜかガラス職人とか、そういった類の職人になったような気持ちだった。経験と技術を駆使して、肉に向き合う。周りは目に入らない。大体二枚一セットで焼いていく。それでも多いくらいだが、これが三枚となると追い付かないし、一枚なら時間がかかる。二枚一セットというのが私のテンポだ。


火加減と、鉄板の状態によって、状況が変わる。一枚目と二枚目では違う。表と裏でも焼く時間が違う。表は丁寧に、裏は適度に。間に1ミリ〜2ミリくらい赤い部分が残る程度が私の好みだ。自分の技術の確かさを確認する。出来上がった肉を見て、やり方がどうだったのか顧みる。職人のように。


3種類のたれはどれもオリジナリティーがあった。塩だれは、珍しいのと、素材を引き立てる感じ。焼肉にポン酢というのはあまり私は好みではないが、この店ではありだ。肉がこういう肉なのでさっぱりした味付けが合っていた。特製の焼肉のたれは王道で、最後はこれで締めようと思った。


良い肉すぎて、大体、3〜4枚食べたところで満足しているのだが、まだ折り返し地点まで来ていない。そして(一人なのに、あってはならないことだが)少し焼き方が雑になっていく。いま惰性になっている。心の声が警告する。なかなか最後まで集中してできない。職人としてはまだまだだ。しかし一回反省すると次はまた上手に焼くことができる。ご飯が足りなくなったのでお代わりをもらう。


最後の肉を焼き終えて、お代わりしたご飯もなくなる。肉を食べ過ぎた。好きで食べに来たのに、肉を嫌いになりそうだ。デザートが運ばれてくる。焼肉を食べ終えた時、最後に必ずこう思う。もう当分、焼肉は食べたくない。しかしきっと2〜3週間もすれば、また焼肉を食べてくなっていることだろう。そんなふうにして、その他にたいしたことのなかった連休の最後の日、「一人焼肉」という充実した出来事が終わった。


【黒毛和牛焼肉 肉處 きっしゃん なんば店】

住所/大阪府大阪市中央区難波5-1-18 なんばダイニングメゾン 8F
営業時間/11:00〜23:00(L.O.22:00)ランチは11:00〜16:00

ゼンハイザー『MOMENTUM On-Ear Wireless』を買った


ゼンハイザーBluetoothヘッドホン『MOMENTUM On-Ear Wireless』を買った。耳は一組しかなく、去年の冬にゼンハイザーDENON、夏にBOSEのヘッドホンを買ったというのに、私の物欲は留まることを知らない。興味があるとすぐに買ってしまう。困ったことに、買って試してみると、それぞれ良いものであり、後悔がないので、そのことを繰り返す。


→2016年8月18日のブログ「Bose『Quiet Comfort 25』」

→2016年3月13日のブログ「ゼンハイザー『HD598』/DENON『MM400』」



最近、Bluetooth界隈の盛り上がりが凄い。スピーカーも魅力的な製品がたくさん出ているし、イヤホン、ヘッドホンも豊富な選択肢が用意されている。私のスマホはiPhone7ではないのでイアホンジャックがないわけではないし、そもそも音楽はiPod touchでよく聴いているので、特に不便もなかったのだが、Bluetoothで聴く音楽への興味が勝った。


梅田のヨドバシカメラで視聴してみて、私が買える範囲で最良のものとして、ゼンハイザーの『MOMENTUM On-Ear Wireless』を選んだ。まず、モノとしての存在感がよかった。なかなかこんなデザインはない。そして色が独特だ。「持っているだけで嬉しい」タイプの製品だ。そして肝心の音質は、想像以上だった。


音質は、低音域が若干強めのように感じられるが、不自然さを感じるほどではない。かと言って、中音域や高音域が弱いかと言われるとそうではなく、しっかりと張りのある音が鳴る。全音域に渡って、パンチが強く、元気な音だ。



ノイズガード機能は、BOSEの最新の機種と比べると劣るが、数年前のSONYノイズキャンセリングイヤホンのレベルを凌駕している。私がヘッドホン、イヤホンのノイズ除去の効き具合を測るものとして、感覚的なものであるが、「地下鉄でクラシック音楽ピアノソナタを聴くことができるか」という基準を持っているが、それをじゅうぶんクリアしている。先日も、大変に混雑し、騒音の多い地下鉄のなか、ひとり、静かな環境で、ベートーヴェンピアノソナタを堪能した。


そしてBluetoothの違和感がなかったのは嬉しい誤算だった。地下鉄で聴いていても途切れることもなく、コードを挿すのに比べて、音質が劣化しているような感覚もなかった。


シェーンベルク&シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

シェーンベルク&シベリウス:ヴァイオリン協奏曲


ヒラリー・ハーンシベリウスのヴァイオリン協奏曲を聴いてみると、あまりの迫力に、この小さなヘッドホンから音が出ていることが信じられなかった。音響の良いコンサートホールで聴くような、広がりのあるオーケストラのサウンドと、伸びやかで自由なハーンのヴァイオリンが抜群の調和を聴かせる。いやこのスケールの大きさは、コンサートホールどころではなく、冬の北欧の自然だ。時折、トナカイが姿を見せるような、雪深い森の中に、一人置かれたような気持ちだ。時間を忘れ、このヘッドホンが表現する世界に浸ってしまう。


ヒラリー・ハーンクラシック音楽だが、他にも、ジャズ、ポップス、ロックなど、何でもオールマイティーにこなす。サイズの制約を感じさせない。この小さなヘッドホンから、これほど本格的なサウンドを聴くことができるとは思わなかった。