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H.J.リムのピアノソナタ全集


韓国人ピアニストのH.J.リムによるベートーヴェンピアノソナタ全集を聴いた。というか最近ずっとこればかり聴いている。演奏の好き嫌いは別にして、これほど演奏者の顔が前面に出た、個性的な演奏を私は他に知らない。


Complete Piano Sonatas

Complete Piano Sonatas


これらのCDは2012年に発売され、当時大変な評判となったが、私は最近手に入れた。なぜ今まで聴いてこなかったのだろう。ずっと忙しかったのだろうか。他に聴きたい曲が山ほどあったのだろうか。また、彼女の演奏を聴くチャンスはCD以外にもあった。今年の8月に大阪でコンサートがあった。仕事のために行かなかったが、仕事を放っておいてでも行っておけばよかった。


内容について書く前に、(多くの人が知っていることでありあえて書く必要があることかわからないが)自分のための備忘録として、彼女のキャリアについて触れておきたい。


韓国生まれのピアニスト、H.J.リムは、突然、世に出たように見える。大きなコンクールで優勝したとか、そういうピアニストの登場の仕方とは異なっている。彼女が留学先のパリから家族に見せるためにユーチューブにアップしたピアノ演奏動画が、ネットで評判となり、それがレコード会社であるEMIの幹部の目に留まる。そして専属契約を勝ち取り、新人として異例のデビューとなった。しかもそのデビューアルバムがいきなり、ベートーヴェンピアノソナタ、しかも全集ということが、さらに破格のことだった。

H.J.リム『ベートーヴェンピアノソナタ全集』収録曲一覧
<CD1 英雄的思想> 29「ハンマークラヴィーア」、11、26「告別」
<CD2 永遠に女性的なもの> 4、9、10、13、14「月光」
<CD3 確固たる個性の形勢> 1、2、3
<CD4 自然> 25、15「田園」、22、21「ワルトシュタイン」
<CD5 極端なものの衝突> 5、6、7
<CD6 あきらめと受け入れ> 16、17「テンペスト」、18、28
<CD7 永遠に女性的なもの、成熟期> 24「テレーゼ」、27、30、31
<CD8 運命> 8番「悲愴」、12、23「熱情」、32
※第19番と第20番は若書きの練習曲とされ、収録されていない。


曲順は、上記の通り、1番から順番に収録されているわけではなく、アルバムごとに彼女が設定したテーマに沿って選曲されている。最初の曲は第29番「ハンマークラヴィーア」である。ベートーヴェンピアノソナタの中で最もテクニカルで長大なこの曲を最初に持ってくるのか。誰かに対して喧嘩を売っているのか。革命を起こそうとしているのか。それにしても憎いプログラムだ。


2枚組のCD単体でも発売されているため、セールスのことを考えると、第3集(CD3と4)と第4集(CD5と6)が弱いように思うが、そんなことは彼女にとってどうでもよいことなのだろう。


私は最初に聴きはじめた「ハンマークラヴィーア」にやられてしまった。力強い!なんという音の圧力。目まぐるしいスピード。このピアニスト、もの凄く巧い。奔放にして大胆。個性的という言葉は彼女のためにあるのか。初めて体験するような速いテンポで曲は進む。恣意的とも言える解釈に、途中でこの大曲が再現されずにそのまま瓦解してしまうかと危ぶまれるが、そんな危険は全くない。曲の根っこを鷲掴みにしているかのように、ともかく確信に満ちているのだ。徹頭徹尾、実に刺激的なベートーヴェンを聴かせる。彼女は誰に喧嘩を売っているのだろうか。これまでのピアニストすべてだろうか。聴き手だろうか。あるいはベートーヴェン?「ハンマークラヴィーア」の演奏史上に残る、畢生の名演である。


しかし興奮はそれだけで収まらない。11番も冴えわたる演奏を見せ、続く26番「告別」が凄い。一気呵成、電光石火というのはまさにこのことで、危険な疾走感を感じさせる演奏だった。演奏終了後、興奮して思わず手を叩きそうになった。


他のCDでは、また「ワルトシュタイン」も面白かった。「ハンマークラヴィーア」ほど徹底されていないが、同種のスタイル。「テンペスト」、「悲愴」。ともに素晴らしい。また初期の作品群もかなりの出来栄えだった。しかし28番は、私の好みから外れる。ルドルフ・ゼルキンの演奏の抒情性が懐かしく感じる。「熱情」。ちょっとやりすぎではないか。「熱情」については、ファジル・サイの過去の録音に個性的なものがあり、それも一線を超えていたが、それをさらに半歩超えている。そして30〜32番。特に32番。曲自体が深淵すぎる。私はこの曲の演奏にはテクニカルよりスピリチュアルを求めたい。これらの曲は、往年の名ピアニストの演奏の方を採る。


飽きもせず毎日聴いているが、これほど繰り返し聴くことができるというのも、個性的で楽しいし、聴きごたえがあるからだ。私が好みではないと思った演奏もすべて、面白いか面白くないといえば、面白いものだった。こんなピアニストはなかなかいない。28歳とまだまだ若い。これからどんなピアニストになっていくか。あるいはいまがピークか。逆に今は序章か。


(↑ユーチューブにアップされているラフマニノフの2番。2014年の演奏。素晴らしい。)


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