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神戸三宮『グリル十字屋』・2019秋分と晩秋

ライフワークのように、ブログを始める以前から細々と続けている洋食店巡り。ライフワークというと聞こえは良いが、単に食い意地が張っているだけである。いかにも洋食、という感じでわかりやすい美味しさを演出するような盛り付け。室内の照明がソースに反射して輝くハンバーグ。タルタルソースがたっぷりかかったエビフライの弾力。切っている最中からソースが溢れるカニクリームコロッケ。昔連れて行ってもらった、地元にしかなかったファミリーレストランが、現在まで至る嗜好の原点となっている。


『グリル十字屋』は、もしも世の中に「神戸の洋食店番付」というものがあるなら、誰が付けても、中入後、幕内に必ず入り、人によっては三役に付けられてもおかしくない実力を持った店だ。それでは横綱はどこの店になるだろう。それは考えるだけで楽しいし、この店を横綱にする人だっているだろう。


三宮駅から神戸税関に向かう大通りを南に歩いて行って花時計線を右に折れる。そしてすぐのガソリンスタンドのところで左に曲がって50メートル。向かいには中華料理の高級店『第一樓』がある。



道路から見ると低い位置に店のフロアがあるため、店に入ってすぐに下りの短い階段がある。短い階段を下りるという簡単な動作が、外の世界とまた違う世界に踏み入れたような感覚を与えてくれる。こうした少しの手間がとても良いアクセントなっている。



階段を下りる過程ですぐに気づくのが床の大きなタイルだ。入って正面のレジ前の床にある中世のモザイク画のようなタイルで、床のこの部分は神戸洋食界?ではとてもよく知られている。「JUJIYA1933」とある。古き良き港町神戸の時代を思い起こさせるようだ。この店は創業時、百貨店・そごうの横に位置し、外国語が通じるレストランとして知られていたらしい。他店にはあまり例のない、趣のあるタイルだったため、許可をいただき撮影させていただいた。



私はハイシライス(ハヤシライス)と迷い、ビーフカツレツ(ビフカツ)を注文する。ビフカツは1550円。それに600円追加して、小さなポタージュとライスをセットにつけてもらう。ハイシライスをさっと食べてさっと店を出ていく気軽さも捨てがたいが、せっかく神戸までやってきたので、本場のビフカツを食べることがその時は魅力的なように思えた。



付け合わせは茹で野菜に加え、マカロニのトマトソース。茹で野菜は優しいと思う。たっぷりの生野菜サラダというのとも違う上品さもある。ビフカツは最初から切られている店もあるが、『グリル十字屋』は自分で切るタイプだ。ナイフとフォークを使用し、衣が肉からはがれないように注意深く、切り分けていく。切り分けた一片に3日間煮込んで作るというデミグラスソースを絡めて口に運ぶ。トンカツともチキンカツとも違う、ありえない美味しさだ。外の衣はサクサク、中は弾力満点の赤いミディアムレアである。量はそれほど多くはないが、大人にはちょうどよい。多くの外食の量は多すぎるのかもしれない。本来はこのくらいが適度なのだ。


気軽なメニューもある洋食店でも、ビフカツは高価である。時計のセイコーが安いモデルもあるのに、グランドセイコーみたいな高級モデルを作っているのにも似ている。ビフカツは大体、どこでも2000円以上。牛肉をカツにするだけで、レベルが一つも二つも違う。それどころかジャンルを超えていく。ビフカツを食べている時の充実感はほかの食べ物ではなかなか得られないものだ。


◇  ◇  ◇


そしてそれからさらに日が経った別の秋の日。紅葉も進み、肌寒く感じる頃だった。私はまた『グリル十字屋』を訪れていた。あの時のハイシライスが気がかりになってしまったのだ。私は今度はハイシライスを注文する。950円だった。



ハイシライスの気軽さは何なのだろう。同じく気軽なカレーの場合、(好きだとはいえ)食後までカレーに支配されるし、チキンライスというのも何か違う。オムライスは何となく手間がかかり、ラーメンや蕎麦だと実務的だ。ハイシライスの絶妙さは、他には代えがたい。自慢のソースで煮込まれた細切りの牛肉と玉ねぎ。主役はソース。少なめのライスに絡めて食べる。



アップで。ソースが輝いている。量は、前回のビフカツと同じように、軽めである。しかし大人ならば、このくらいがちょうど良いはずだ。前回の訪問が9月。秋に入ろうとしている頃だった。そして今回、秋が終わろうとしていた。秋分のビフカツ。晩秋のハイシライス。2019年の年末の大掃除のように、秋の出来事を振り返る。

『麒麟亭』と京都水族館・2019年夏

麒麟亭』のことを書きたいと思う。2019年もほとんど終わり、映画のクライマックスのようなこの段階で、ずいぶん前の夏のことを思い出して記録に残すのは自分でも「どうなのか」と思うのだが、2020年になれば本当に残せなくなってしまうので、年末の大掃除のような気持ちで書き残しておきたいと思う。2019年も他の年と同じように、洋食をよく食べた。その中に、初めて訪れた店や、過去のブログに書いてなかった店があるので、思い出しながら書いていく。


それは2019年の夏のことだったー


麒麟亭』は京都の七条大宮からすぐのところにある。大正時代創業の老舗で、古くから京都に住んでいる人ならよく知っている店だと思う。私は京都に何年か住んだが、その頃は今のようにスマートフォンもなかったので、この店のことは知らなかった。よくある観光客向けのガイドブックには何故かこの店が載っていない。それは当時からそうで、いまでもそうだ。みんなが知っている老舗なので載せる必要がないのか、七条大宮というロケーションのため有名な神社仏閣がなく一緒に訪れるスポットがないからそうなのか、理由は不明だが、ガイドブック類からは無視されている。しかし大正時代創業の洋食の名店で、古くから京都に住んでいる人ならほとんどの人が知っている店である。世界的な観光都市である京都で、住人と観光客で認知度に相当な差がある。そういう状況はかなり面白い。


この店の前を初めて通りがかったのは、京都水族館を訪れるためにこの周辺を歩いたことだった。その時は、訪れることがなかったのだが、独特な雰囲気が心に残った。その日のうちに調べてみると、かなりの老舗洋食店であることが分かった。せっかく近くに来ていたにもかかわらず、そのとき私は、すでに昼食をその辺の喫茶店で、レトルトの疑いのある人工的なカレーを食べてしまっていたのだ。私はその運命を呪った。カレーを食べた後に洋食を食べることはできない。その思い出を引き摺っていた。


そして2019年の夏。京都水族館に向かっていた私(と上の子)は、近くに『麒麟亭』があることを覚えていた。二度目は確信に満ちていた。京都水族館に行く途中、覚えていた道を歩き、店に向かう。


店を前にしてまず書いておきたいのは「老舗」感、老舗らしい風情がすごいということだ。だから気になっていたということがあるのだが、「地方の町に一軒だけある老舗」ならこういう雰囲気を持った店があるかもしれない。独特の雰囲気が歴史を物語っている。あまり京都では見かけないタイプの、例えば松本や高山にありそうな民芸調の趣である。それでは中に入ってみよう。満を持して、店に入ると、洋食店というよりは、郷土料理の店のようである。


コの字型というのだろうか、調理場を囲むカウンターが目に留まる。ロの字型かもしれない。その記憶はあいまいだ。椅子席もスペースが大きめに取られ、大人四人でも窮屈な感じはないだろう。客層はやや高く、年配の夫婦、それほど若くないカップル、龍谷大学関係者らしい二人組(龍谷大学大宮学舎が近い)。年配の女性四人組。カウンターも一人客が三人ほど。平日ということもあり、席は空いていた。圧倒されそうな重厚な雰囲気があるが、一部の老舗によくある、お高くとまったところはなくて、接客にも温かみがあり丁寧。子連れでも全く問題ない。


メニューには、名物がずらり。「わらじビーフカツ」。それほど大きいのだろうか。「わらじ」というネーミングが良い。普通は「L」とか「特大」なのだが「わらじ」というのが洋食店なのに和風で、何とも老舗らしくて良い。「海老クリームコロッケ」。食べる前から美味しいことが分かっている(子供用に注文したが美味しかった)。そして「牛鍋」。私は牛鍋を注文する。牛鍋とは何だろう。すき焼きとは違うのだろうか。ずいぶん昔に歴史の授業で、江戸末期から明治にかけての時代にかけて流行った牛鍋というものを知ったとき、いつか食べるチャンスがあるのだろうかと思った記憶が残っている。歴史の資料集で見た牛鍋に対し、私は少年的な憧れがあった。



まずはサラダと漬物が運ばれる。



ほどなく、メインの料理が提供される。見かけからすると、関西風の、割り下を使わないすき焼きではなく、関東風のすき焼きである。違うのは卵の扱いだ。肉は生卵につけて食べるのではなく、あらかじめ鍋の中に入っている。牛とじというほど混ざっていなくて、卵は最後の仕上げに入れた模様である。全体的には、肉を野菜と豆腐と一緒に鍋で煮込んだ料理である。文字通り、肉の鍋、肉鍋だった。牛鍋とは、関東風のすき焼きに近いものだったのか。



私は鍋をつつく。豆腐を箸で二つに割り、口に入れる。野菜を口に運ぶ。牛肉を噛んでみる。みりんの味が出る、すき焼きと同様にシンプルな味付けだ。出汁が効いている。甘すぎず、コクのある出汁で煮られた具材たち。これは老若男女、誰もが好きな味だろう。歴史的な店で食べた牛鍋は、文明開化の味がした。




私は肉鍋を食べ終わり会計を済ませ、満足した気持ちで店を出る。何年越しで訪れることができたのだろう。そして次の目的地である京都水族館に向かう。





京都水族館は、大阪の海遊館の巨大水槽のような目玉はないが、見どころの多い水族館だ。新しめの水族館で、京大白浜水族館や和歌山県立自然博物館、琵琶湖博物館のような学術的なところとは対極的なエンターテイメント寄りの水族館で、ショーもあり、水槽にプロジェクションマッピングを駆使した演出もあり、魚の種類も多い。その、広く見どころが散らかっている感じが好きで、私は気に入っている水族館のうちの一つだ。


好きな京都水族館だけでなく、『麒麟亭』に行くことができ、幸せな夏の休日となった。

ポリーニのショパン後期作品集

ポリーニによる『ショパン後期作品集』を聴いている。ポリーニは現在、77歳。録音は2015年、73歳の時のものだ。


幻想ポロネーズ、舟歌~ショパン後期作品集

幻想ポロネーズ、舟歌~ショパン後期作品集


一曲目の舟歌、冒頭のフレーズを聴いたとき、70歳を超えたピアニストが弾いているとはとても思えなかった。信じられほど気鋭に満ちた、力強い音が鳴っていた。しかし若いピアニストの音ではない。若い人にこんな音は出せない。


その上でこの柔らかさ。繊細さ。ピアノの化身のような、卓越したテクニック。楽譜に書かれた全ての情報を描ききるため、完璧な演奏で追い込むような獰猛な雰囲気は年々薄れているが、紛れもなく、ポリーニ。このショパンは、老年期に入ったポリーニによるものだった。ポリーニはピアニスト、音楽家として、圧倒的で、伝説的で、ミシュランレストランガイドで言えば三ツ星クラスで、そのために旅行して聴くほどの価値がある、普通ではない有り難さがある。遠くまで旅行しなくても、つい数年間まで、私にも大阪でも聴くチャンスがあったのに、どうして行かなかったのだろう。


ピアノの達人であるポリーニと言っても、加齢による衰えは当然あるはずだ。しかし若い頃と同じように鍵盤を支配するようなスタイルは同じで、いくつになってもアスリートであると実感する。私には、元ロッテの村田兆治が引退後も、速球にこだわり続け、140キロ近くの速球を投げていたことが思い出された。


作品59。3つのマズルカが続く。59の1では儚く陰りのある演奏。59-2のテクニカルなワルツを経て、59-3で若い頃と変わらない豪快な演奏を聴かせる。


作品61の「幻想」ポロネーズは深い。人生のエッセンスが詰まっている。それは、かつての天才料理人による、一筋縄では行かない、記憶に残るおもてなしのようだ。しかしいかにも大家というような、固定したものでなく、流動的で、いまだに変化に富んでいて、柔軟性を感じさせるものだ。私はウォークマンでこの曲を聴きながら歩いていたが、雄弁なピアノによって語り尽くされる、情景のあまりの美しさに、思わず目を閉じてしまい、危うく転びそうになった。


2つの夜想曲。作品62。こんな慈愛と癒しに満ちたノクターンが他にあるだろうか。この演奏で描かれるイメージは言葉にできない。


演奏は続く。


作品63。3つのマズルカ。作品64。3つのワルツ。このアルバムのコンセプトにブレはない。ショパンの晩年の曲として選ばれた珠玉の作品群である。それらを73歳の、かつての天才ピアニスト、ポリーニが弾く。ポリーニはいくつになってもポリーニだ。ポリーニも一貫している。いくつになってもアスリートだ。


作品68の4。マズルカ ヘ短調 《遺作》。最後のマズルカはまさに絶唱。このまま消えてしまいそうな静寂の美。ありがたいものを聴かせてもらった。

京都千本上立売『キッチンパパ』の洋食

クラシック音楽などの音楽全般のほか、洋食、旅行、カメラの趣味は現在も続いている。休みの日には好きな音楽を聴きながら電車に乗り、カメラを持って気になるお寺に行って、目的地近くの洋食の名店を訪れる。行きの電車、好きな音楽を聴いて、時にまどろみ、目的の駅の一つ前の駅で自分が寝ていたことに気付いたとき、これから始まる一日の充実感が予想されて、既に幸せな気持ちとなっている。いろいろな趣味や関心があるが、音楽、カメラ、食事など、一日でかなりの部分が解消される。そうしたなか洋食屋巡りのストックが貯まっていく。


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先日、京都洛北の名刹の庭園巡りをしたとき、昼食の店に『キッチンパパ』を選んだ。京都の洋食店の中ではそれほど古い店ではないが、多くのガイドブックにも載っている人気洋食店だ。私がその日目的地とするエリアからは外れているが、京都市内、車であればそれほど広くないので、昼を食べに行って、また戻ってくることが可能だ。


お店は千本通から上立売通を東に入る、慣れてなければ走りにくい細い道沿いにある。千本通り沿いの近くには釘抜き地蔵として知られる石像寺がある。店の近隣にコインパーキングはあるが、近づくまでわからなかった。私は今出川通りから細い道に入って北上していったが、場所の見当がつかず、大体の見当をつけて止めたパーキングは店からかなり遠かった。店に向かって歩く途中、店からもっと近いところに二つのパーキングを見つけた。結構な距離を歩くことになってしまった。しかし、休みの日に、京都市内のあまり過去に歩いたことのないエリアを歩くのは楽しかった。


『キッチンパパ』は米屋の奥にある。入ってすぐのところは米屋兼精米所になっていて、その奥が店となっている。その日食べる分の米は、随時、玄米から精米される。そんなこだわりのある店だ。


平日の昼で、12時近く。昼時とはいえ平日なので、空いていると予想したが、満席だった。私は店頭の椅子で15分ほど待ち、やがて席に案内される。それほど広くない。先客の姿を見ると、サラリーマンのほか、この近所の人らしき親子。親は母親だけで子供は2歳か3歳くらいだろうか。続いて、熟年の夫婦。他には外国人観光客のカップルの姿もある。二人は中国語を話していた。男性の方は体格がかなりよく、短パンをはいている。女性の方は黒髪のストレートヘアで、ずっとスマートフォンを触っている。いかに京都、有名店、とはいえ、千本上立売のこんな住宅街に、外国人というのが意外だが、外国のガイドブックでも紹介されているのだろうか。


私は、ハンバーグとエビフライのセットを注文する。1280円。日常のランチにはすこし高価だが、洋食の有名店としては決して高くはない。妥当なラインだ。


料理が運ばれてくるまでは、しばらく待つ。客の回転は速くはない。手作りの店でよくあるくらいの待ち時間がかかる。そのうちサラダが運ばれ、その後、ご飯と味噌汁が運ばれる。店内の黒板に、ご飯は今日の米は何処産の何々銘柄と掲げられている。米屋なので、米が大切なのだ。




サラダを食べ終わった後、まずは米だけで食べる。繊細な味覚であれば、米自体の甘みでおかずすら不要だ。炊き立て、ご飯はやや柔らかめ、米本来の香りが立ち上る、水の美味しい土地で食べるような米だ。味噌汁さえあれば、これだけで一食いける。しかしその後にメインが来るのである。


時々、別の店ではあるのだが、「ご飯が残念な名店」というのがある。おかずが美味しくてもそういう店はある。逆に、「ご飯が美味しい店」がある。ご飯が美味しい店は何故か、おかずも美味しい。これは期待できる。


満席の状態が続き、さらに客が入ってくる。そうした客に先にメニューを渡すこともないし、急かされるように皿を片付けられることもない。
店はそれほど急いでいない。焦っていない。客も急いでいない。早食いせざるを得ないような状況も作られてはいない。時間は悠然と流れている。京都らしいという感じもする。京都のこういう部分は良い部分である。普段はセカセカした時間を過ごしているので、こういう時間が大切なのかもしれない。空席ができ、先ほどまで待っていた他の客も、席に案内されて初めてメニューを見て、考えて、注文をする。



ご飯の後、一呼吸置くくらいのテンポで、メインのおかずが運ばれてくる。ハンバーグとエビフライの組み合わせが最強である。ザ・ごちそうという感じがする。


ハンバーグは牛肉の旨みたっぷりだ。つなぎを感じさせない。その辺りは、本格的で、大阪・心斎橋の『グリルばらの木』に近い。ソースは苦味のあるデミグラスソースで、王道の味。大人も満足するハンバーグだ。エビフライはしっかりと身が詰まっており、これだけでも主役を張れる。そして、それらを受け止める米の美味しさ。



アップで。エビフライは大きめ。ハンバーグの存在感に負けてない。その存在感は、エースと四番が一対一で向かい合って座っているようなイメージである。衣でカサを増しているなんてことはない。エビ自体が太い。ハンバーグとエビフライの違い。デミグラスソースとタルタルソースの違い。それを同時に味わえるハンバーグとエビフライの組み合わせはやはり最強だった。待った甲斐があった。



私は食べ終え、会計を済ませて店を後にする。記念に、外から外観を撮影する。そして遠目のコインパーキングに向けて再び歩き出す。

【キッチンパパ】

住所:京都府京都市上京区上立売通千本東入姥ヶ西町591
営業時間:11:00~14:00/17:30~20:50※ごはんが売り切れ次第終了
定休日:木曜

メトレル・ピアノ協奏曲第2番ハ短調(Op.50)

メトレルのピアノ協奏曲について。私が好きなのは1番の方だが2番も相当聴いている。同じロシアの作曲家でも、チャイコフスキーともラフマニノフとも違う、メトネルの個性が表れた隠れた名曲だ。


(↓メトレルのピアノ協奏曲第1番についてはこちらをご参照ください)
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野球の投手に例えると、一番は本格派で、こちらは技巧派。技巧派とは言っても、小細工でかわす印象でなく、本格派がモデルチェンジをして、投手として成熟しスケールが大きくなった果ての技巧派という感じがする。仕事の丁寧さはプロフェッショナル。荒々しい迫力では1番に及ばないが、曲自体の興味深さでは上回るのではないかという気が最近している。


曲はオーソドックスな3楽章構成で、ラフマニノフのピアノ協奏曲のようなドラマチックな流れを特徴としている。何かの啓示のような冒頭から予断を許さない緊張感に満ちた第一楽章。大きな流れに任せる船に横たわっているような第二楽章。第三楽章は壮大な舞曲。第三楽章は曲を通してのハイライトで、大変テクニカルである。その曲を、マルク=アンドレ・アムランの演奏で聴く。


Piano Concerto, 2, : Hamelin(P) V.jurowski / Lpo +rachmaninov: Concerto, 3,

Piano Concerto, 2, : Hamelin(P) V.jurowski / Lpo +rachmaninov: Concerto, 3,


いわゆるマイナー名曲のひとつなので録音の種類は決して多くはない。数少ない録音の中からではあるが、アムランの演奏は、孤高のテクニックで他の追随を許さない。アムランはこの曲の日本初演を東京のサントリーホールで行ったこともあるし、現段階ではこのCDが決定盤という感じがする。


この難しい曲をよくここまで完璧に弾き切っているというのがまず驚くべき点で、全ての音符の粒が揃い、掘りは深く、歯切れがよい。アムラン以外のピアニストでは、この難しい曲をここまで支配的に弾きこなすことなどできないだろう。テレビの解像度に例えるなら、フルHD、4Kを通り越して、8K的な演奏である。CD以上の情報がこの中に入っているのではないか。私は、伝統芸能の名人芸や一子相伝お家芸を鑑賞するような気持ちで音楽を聴く。演奏はそのくらい圧倒的で、常人には計り知れない領域にある。


また、このCDにはラフマニノフのピアノ協奏曲3番ニ短調も併録されている。こちらの演奏も相当すごいということも最後に付け加えておきたい。

岡山の旅(2)後楽園・岡山城・岡山県立美術館

【↓↓↓岡山の旅(1)『天神そば』・『冨士屋』~岡山ラーメン編↓↓↓】
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『天神そば』で遅い朝食(早い昼食)を食べた後、歩いて後楽園に向かう。後楽園は、江戸時代の岡山藩主、池田綱政が作らせた回遊式庭園で、水戸の偕楽園、金沢の兼六園と並ぶ日本三名園の一つだ。


okayama-korakuen.jp


広大な園内には、旧藩主の居間・延養亭や能舞台も復元され、池、水路、丘、梅林、花菖蒲畑、楓林、水田、茶畑、鶴舎を擁し、四季折々、様々な景色を見せる。スケールの大きな庭園で、大名庭園というのに相応しい庭園だ。




園の中心にある沢の池からは岡山城が見える。そこまで行けそうなので、後で行ってみようか。




茶畑。楓林。林は紅葉の時期には綺麗だろうが、今の季節もとても良い。



岡山には仕事で何度も訪れていたが、その期間には後楽園に行ったことはなかった。もっと昔に一度、青春十八きっぷで瀬戸内海を周遊したときに訪れて以来だった。その時は真夏で、今日以上にカンカン照りで猛烈に暑かったことが思い出された。




園内には水路が張り巡らされている。水もとても澄んでいる。あらゆるところが丁寧に手入れされている。


昔訪れた時との違いは、外国人観光客が多いということだった。とくに中国や韓国からの観光客が多い。昔は中高年の観光客が多かったように思ったが、現在は園内の休憩所でも外国の人が多い。後楽園はメジャーな観光スポットで、しかも日本三名園だからだろうか。それはともかく、後楽園は相変わらず素晴らしい庭園で、どこを切り取っても見どころで、久しぶりに来てみて良かった。



後楽園から岡山城まではすぐだった。後楽園の南門から出て月見橋を渡ろうとしたところ、岡山城の姿が目の前にある。岡山城は、黒い外観から『烏城』という別名を持っている。戦国大名宇喜多秀家による城で、現在の天守閣は昭和の復元である。城の周囲は烏城公園として整備されている。



昨今、城ブームだが、私は城について全然詳しくない。そんな私にとって、岡山城はかなり好きな城だ。旭川沿いというロケーションも良いし、緑が豊富なところも良いし、宇喜多秀家小早川秀秋という関ヶ原の戦いの重要キャストが城の歴史に登場するのが良い。また復元の天守閣の立ち姿が凛々しい。



天守閣の内部は資料館となっていて、歴史を学ぶことができる。岡山城は財団法人日本城郭協会による日本100名城にも選ばれている。



城というと大阪城みたいに広いイメージがあって、かなり歩くのではないかと思うのだが、岡山城の敷地はそれほど広大というわけではなく、限られた時間でも、後楽園とセットで訪れることができた。


◇  ◇  ◇



5月の終わり。新緑の季節。街中に緑が溢れている。



その後、まだ時間があったので、岡山県立美術館で『国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティック・ロシア展』で、イワン・クラムスコイ『忘れえぬ女(ひと)』を鑑賞した。



フェルメールの『青いターバンの少女』みたいに印象的なその絵は、かなりの有名作品で、様々な解釈がされている。またモデルは不詳だとも、アンナ・カレーニナのモデルを描いたとも言われる名画である。そのほかにも、岡山県立美術館に、19世紀後半から20世紀初頭のロシア美術のコレクションが集まっており、私はまるでチャイコフスキー交響曲を聴いたように濃密な時間を過ごした。



美術館を出てしばらく市街地を散策する。岡山市中山下付近。この辺りは昔よく歩いた。もう少し歩くと、バスターミナルがあって、天満屋があって、紀伊国屋書店のあるクレド岡山があって、と次第に記憶がよみがえってくる。



表町の商店街。以前、この辺りの漫画喫茶に行ったことを思い出したが、その店は発見できなかった。『天神そば』、岡山シンフォニーホール付近で、岡山県立美術館岡山市立オリエント美術館、後楽園などのカルチャーゾーンにも近い。




路面電車に乗って、再び、岡山駅に戻ってきた。そして、『冨士屋』で二杯目のラーメンを食べることになるのだが、食べた後、帰りの新幹線まで少し時間が残っていた。私は奉還町の商店街にあるカフェで休憩し、時間をつぶした。




岡山駅できびだんごのお土産を買い、帰りの新幹線に乗った。家には6時には着いて、いつものように子供を迎えに行く日常に戻る。世間は平日。私にとっては休日らしい休日となった。岡山あたりまで行くと、気分も違った。それが結論だった。

岡山の旅(1)『天神そば』・『冨士屋』~岡山ラーメン編

自分一人のための休みが取れない日がしばらく続いていた。子供の運動会やゴールデンウィークで休んでいたはずなのに、休んでいない時のような気分がなぜか続いていた。それは一人の時間が取れなかったため、気分的に、精神的に自由な時間が意外に少なかったからかもしれない。「休日らしい休日」を一人で満喫する。それがここ数日抱いていた密かな願いだった。


そんな中、頭の中を占めていた計画が、岡山まで行くことだった。平日の休みがあれば、行ってみたい。私は岡山まで日帰りで行って帰る計画を温めていた。朝起きて、上の子を小学校に送り出し、下の子を保育園に預けた後、ふらっと岡山まで行ってみようか。そのくらい遠くまで行けば、休日らしい休日を味わえるのではないか。岡山の観光地に行って、岡山グルメを満喫して、その日の夕方、何事もなかったかのように家に帰ってくる。それはとても魅力的な計画のように思えた。


そして待望の平日の休みが訪れる。私は朝からそわそわしていた。私はより具体的に、岡山への日帰り旅の目的を大きく「岡山ラーメンと後楽園」ということに決めた。ラーメンなら時間をずらせば二杯食べられるはずだ。岡山ラーメンの店として、過去に行ったことのある『天神そば』と『冨士屋』を選んだ。そして後楽園。日本三名園の一つ。今の季節、新緑がきっと綺麗だろう。後楽園を岡山ラーメンで挟むというのが、時間的にもちょうどよさそうで、後は成り行きで他も可能であれば行ってみるということで、私はまずは新大阪駅へ向かう。


岡山は新大阪から50分とかからず、とても近いが、仕事でも帰省でも家族旅行でもないのに、わざわざ新幹線に乗るということが、普通でない気分だった。しかも目的の一つは、ラーメンを食べに行くという、他の人からはなぜそんなことのためにと思うような動機で。岡山は私が10年以上前に仕事でよく出掛けていった場所だ。様々な通りを車で走り、表町や奉還町の商店街をよく歩いていたものだった。岡山に行けば、昔の懐かしさも思い出されるかもしれない。



岡山駅を降りて駅前に立ち懐かしい桃太郎大通りを眺めた瞬間、10年以上前の記憶がほとんど蘇ってこないことを知った。懐かしさもそれほど込み上げてこないのだった。そこは多少知った、どこにでもある都市で、例えば、和歌山駅で降りたとしてもそれほど変わらない印象だったかもしれない。何となく思い出す風景もあるが、その風景を通して懐かしい思い出が走馬灯のように駆け巡るということはなかった。10年は昔すぎたのだろうか。


とはいえ、私は最初の目的地を目指す。岡山ラーメンを食べなければならない。そのために、朝食も抜いてきたのだった。


◇  ◇  ◇


岡山ラーメンと後楽園の旅は『天神そば』から始まる。『天神そば』は、路面電車城下駅からすぐのところにある。



私は路面電車にそれほど馴染みがないので、その路面電車という交通機関にテンションが上がる。旅はプロセスも大事だと実感する。バスでもなく地下鉄でもないというのが良い。都会で働くビジネスマンならば岡山駅から『天神そば』までは徒歩圏内だが、私は路面電車に乗りたい。路面電車なら5分もかからず到着する。


『天神そば』は昼のみの営業で、10時半から開店している。昼は行列ができることも珍しくないが、11時前だったので空いていた。岡山を代表するラーメン店で、岡山ラーメンとしては最も有名なお店だ。店内は狭く、カウンターが5~6席。4人掛けのテーブルが二つ。多くの場合満席で客はひしめき合って食べる。相席が基本である。私が昔行った頃は、ご主人がやっていたが、いまは女将さんがされている。カウンター越しの厨房も狭いが、その狭いスペースに女性の店員が4名。4バックの4人のディフェンダーのように、それぞれ役割が決まっており、コンビネーションは抜群。料理はすぐに提供される。


カウンター越しの厨房を占有するのは急な階段であり、あの上はどうなっているのかといつも考えるのだが、聞いたことはない。食べたらさっと店を出るので機会がないままになっているが、気になっている人は多いはずだ。そして、その階段の側面にメニューが掲げられている。メニューは「1.天神そば」、「2.肉抜き玉子入り」など書かれており、客は「1番で」と、番号で注文している。そういえばそうだった、と思い出す。私も「1番お願いします」と注文する。



すぐに料理が提供される。まずはスープを飲む。大変美味しい鶏ガラのスープである。「昔ながら」みたいな醤油風ラーメンの写真からは想像もできないくらい、はっきりとした主張のスープである。醤油に鶏が勝っている。これは手間暇に加え、かなり金がかかっているなと思った。一杯のラーメンに対し、鶏一羽使うそうである。麺はストレートの中麺でスープに合う。チャーシューは分厚いものが4枚も。これはチャーシューメンを名乗ってもよいレベルである。太っ腹だ。そして味は人生で食べた全ラーメンのベスト5に入る。かと言って3位はどこなのかと聞かれると困るが、現在、この瞬間は1位にしても良いかもしれない。それは過去の岡山での記憶によって補正されているのか。そうではない。なぜなら昔地元で食べた美味しいと言われていたラーメンはベスト5には入らない。それは『天神そば』の歴史と力であり、やはり多くの人が美味しいと言う有名店とは違う。このために来たとしても過言ではないと思った。


私が食べたメニュー、天神そばは800円だった。最近はラーメンも1000円近くするものが増えているのでは、この内容でこの値段は良心的だ。私は食べ終えると、混み出す前に店を出る。



店を出るころにも行列はできていなかったが、その後この辺りを通った時には、7人ぐらいが並んでいた。行列ができる店なのだ。


◇  ◇  ◇


時系列で言えば、この後、後楽園に向かうのだが、ラーメンつながりで先に『冨士屋』に行った顛末に触れる。



私は再び岡山駅に戻ってきて、二軒目のラーメン店『冨士屋』を探す。『冨士屋』は岡山駅から近い奉還町にある。過去には、私は岡山に着いたとき、または帰るときによく寄った。今回もそのような形となったのだが、久しぶりなので、大体の見当をつけて歩くがなかなか見つからない。岡山駅の西口から全日空ホテルの前を通って、真っすぐ行って、左に行って、また真っすぐ行って、と覚えていたのだが、一向にそれらしき店が見当たらない。結局、グーグルマップで探して見つけることになった。記憶とはあてにならないものである。


『冨士屋』の向かいにはこちらもまた岡山ラーメンの名店『浅月本店』があり、どちらで食べるかよく迷った。岡山を代表するラーメン店が向かい合って位置している、この二軒の向かい合ったロケーションはとても興味深く、ライバル関係のようでもあるし協調関係のようでもある。まるで京都駅近くで隣り合って営業している『新福菜館』と『本家第一旭たかばし本店』みたいだと思う。どちらを選んでも間違いない、というのが良い。今回は『冨士屋』を選ぶことになった。そもそも『浅月本店』はこの日、定休日だったのだが。


『冨士屋』は、昭和25年創業の岡山ラーメンの源流とも言われる名店だ。店に入ると、昔の食堂のようなレトロな雰囲気で、確かに歴史を感じる趣となっている。左手に厨房があり、持ち帰り用の中華麺とチャーシューが陳列されている。進むとカウンター席がある。右手奥にはテーブル席があって、さらに奥が座敷となっている。テーブル席が満席で、カウンター席も混雑していたため、私は奥の座敷を案内される。


私はその日二杯目のラーメンとして、680円の中華そばを注文する。チャーシューメンも捨てがたいが、二杯目にそれは贅沢しすぎだと感じ、最も王道のメニューを選んだ。客は若いカップル、男性の一人客に混じって、金髪の外国人夫婦が中華そばを食べている。ラーメンも岡山もインターナショナルである。私が座っている座敷の奥がガラス戸となっていて、そこからも声が聞こえる。個室もあるのだろうか。店の人のスペースだろうか。


そうこうしているうちに料理が運ばれてくる。



これは食べる前から間違いなく美味しい。そして食べてみて納得する。確かにこういうい味だった。私は『冨士屋』の味を10年越しでもはっきり覚えていた。『天神そば』の鶏ガラベースとは違う方向性の豚骨醤油。濃い目でコクがあるが、甘みもあって優しい。これはこれでひとつの完成形のような気がする。麺は中細のストレート麺。チャーシューもたっぷり。岡山のラーメンはレベルが高い。


私が帰る頃にも客足は途絶えることがない。サラリーマンの二人組が店に入ってくる。通し営業なのも使い勝手が良いのか。



『天神そば』と『冨士屋』。二軒のラーメン店。二杯のラーメン。新大阪との往復で1万円以上かけて食べに来たが、それだけだったとしても後悔のない美味しさだった。


後楽園編は次回に続く。

【天神そば】
住所/岡山県岡山市北区神町1-19
営業時間/10:30~14:30
定休日/土曜・日曜・祝日

【冨士屋 】
住所/岡山県岡山市北区奉還町2-3-8
営業時間/11:00~19:30
定休日/水曜日

サイモン・ラトル&ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲全集

サイモン・ラトル指揮、ベルリン・フィル演奏によるベートーヴェン交響曲全集を愛聴している。


演奏の収録は2015年秋で、2016年にまず、ブルーレイ同梱版が発売された。このBOXセットは、ベルリン・フィルによる自主レーベルからのリリースで、(内容的を考えると安いといえるかもしれないが)これまで彼の録音を発売してきたEMIやグラモフォンといったレーベルからするとかなり高価だということもあって、私はなかなか手に入れることができなかった。


私が購入したのは、SACD Hybrid版で、2018年に発売されたものだ。CD5枚組で中のケースが紙ジャケット仕様なので取り出すのに気を使うが、再生は普通のCDプレイヤーで問題なく行うことができる。私はSACDプレイヤーも持っており、もちろんそちらでの再生も可能だ。


SACD Hybrid版(CDプレイヤーで再生可能)


■ブルーレイ同梱版

BEETHOVEN SYMPHONIES 1-9 -CD+BLRY-(5CD+3BLRY)

BEETHOVEN SYMPHONIES 1-9 -CD+BLRY-(5CD+3BLRY)


手に入れた日から、1番から9番まで順番に聴いていくと、いままで聴いたことのないような素晴らしい演奏で、これはひょっとすると史上最高の演奏ではないかとさえ感じるほどのものだった。2002年から首席指揮者として関わってきたベルリン・フィルが、完全に彼の楽器となった。ラトルは2018年で既に首席指揮者を退任しているが、任期終盤でついにベートーヴェンの決定版を残した。これ以降のベートーヴェン交響曲の演奏は、この演奏を知ったうえで行うことになるのかと考えると、改めて彼らが到達したレベルに驚かざるを得ない。


どの演奏もベストに近く、私にとっては、これ以上、何を望むのかという感じだった。点数をつけるのは難しいが、敢えてつけてみたい。


1番・・・・98点
2番・・・・96点
3番・・・・95点
4番・・・・96点
5番・・・・95点
6番・・・・97点
7番・・・・97点
8番・・・・96点
9番・・・100点


軒並み高得点が並ぶ。最初に聴いた1番は鮮烈だった。ラトルの意欲的な音楽作りとベルリン・フィルの演奏の精度の高さが一体となって、この全集を盛り上げる。6番『田園』は、ずっとオーケストラの音に浸りたい気持ちになる。こんなに良い音で聴くことができて良いのだろうかと、幸せな気持ちになる。9番『合唱』は、判断基準を超えている。過去に聴いた名盤・名演を思い出しながら、大体自分の中の基準で評価していくのだが、聴き終えたときの感動はそれを超えていた。演奏の質、テンションの高さ、また第九らしい精神性。これは演奏の力だろうか。第九の力なのだろうか。しかしつまらない演奏を聴くと、曲に失礼だと思う時もあるので、曲の素晴らしさが再現される演奏こそが素晴らしいはずだ。まるで第九が初演された場に居合わせたようなリアルタイムの感動があった。どうしてCDにこれほどの情報が入り切るのだろうか。とにかくすごい演奏なので、是非一度聴いてみてほしい。


サイモン・ラトルウィーン・フィル

Beethoven Symphonies

Beethoven Symphonies


ラトルによるベートーヴェン交響曲全集としては、ウィーン・フィルとのコンビで録音したEMI版が有名で、私もそれをよく聴いた。若く、アグレッシブで意欲的で、伝統的なベートーヴェンらしくないベートーヴェンに、ウィーン・フィルらしくないウィーン・フィル、指揮者とオーケストラの緊張関係が火花が散るようで、とても興味深い演奏で、今でも時々聴く。それに対し、ベルリン・フィルとの新しい録音では、ラトルはラトルらしく、ポジティブで意欲的。ベルリン・フィルはいかにもベルリン・フィルらしく、スマートでモダン。長年のパートナーシップで様々な実験・試行を経て経験を積み、気が付いたら周りに誰もいなくなるくらいのレベルに達していた。一言でいうと「孤高」。よくぞここまで。その成果を見て(聴いて)、感慨深いものがある。